昭和20年ごろ、少子化のターニングポイント

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多様な家族計画が選択できる社会

将来人口の予測

日本の将来人口推計について、もっとも信頼されているものは、国立社会保障・人口問題研究所が「国勢調査」のたびに時点修正している「日本の将来推計人口」報告書です。(中位の場合に)50年後の2070 年には 8,700 万人、2120 年には 4,973 万人になるとしています。

1974年(昭和49年)に、合計特殊出生率が人口置換水準を下回ったのに、年齢構造の惰性により、その後40年間ほど人口は増え続けました。同じように、仮定の話として、令和2年に合計特殊出生率が人口置換水準(2.0強)まで戻っていたとしても、人口は惰性で9600万人(24%減少)まで減り続けて、そこで安定するそうです。

この5年前の報告書では、2065 年に8,808 万人としていましたが、今回は 2065 年に9,159 万人となりました。この5年間のほんの少しの変化で、350万人も人口予想が増えました。

ちなみに、アーカイブされている最古の1997年版では、2050年に中位で10,049万人としていました

まるで、AIのような予想だな、という印象です。

データを緻密に分析し、細かく時点修正するものの、ターニングポイントが起きないことを前提としています。

AIといえば、先日(10/11)の、将棋の藤井聡太竜王と永瀬王座との対戦で、AIが一時、80%の確率で永瀬王座の勝利としていましたが、たった一手で、藤井竜王の勝率が90%となり、そのまま藤井竜王が勝ちました。

永瀬王座がミスした一手でしたが。

そのように、実際の歴史では、将棋の一手のように、ターニングポイントで形勢が、プラスからマイナスへ、マイナスからプラスへ転換するのです。

もし、100年前の日本で「将来の日本は人口減少する」とでも言おうものなら、皆から馬鹿にされたでしょう。「どんなデータを見ても、そのような未来はやってこない。人口爆発に対応して満州に理想郷を建設する必要があるのだ」と説教されたでしょう。

役所は、今の傾向が永遠に続くことを前提として政策を立案します。役所はそれでいいのです。でも、私たちが、今の情勢にそのまま流されることを前提とした未来予想図のうえで、あれこれ議論するのは、どんなものでしょうか?

ターニングポイントがやってこなければ、日本の人口は、100年ごとに半減以下に減り続けて、最後はゼロになります。

その前に、隣国に対抗する軍備が持てなくなるので、隣国に吸収されるでしょう。

将棋の一手のようなアイデアを、議論したほうが良くないですか?

次のターニングポイント

そこで、何かターニングポイントになりそうなことはないかな?と考えてみました。

コロナ禍ピーク時に、職場や学校が在宅となり、一時的にせよ、家庭の風景が一変した家庭も多かったのではないでしょうか。不便だった一方で、家事の時間的余裕が増えました。

ターニングポイントとはそのレベルの変化をイメージしています。

歴史上のターニングポイントに起こったことを簡単にまとめると

  • (増)江戸初期に、未婚率減少
  • (増)明治以降に、既婚女性の平均出生児数が増加
  • (減)昭和20年以降、既婚女性の平均出生児数が減少
  • (減)昭和50年以降、未婚率増加

となっています。

つまり「未婚率」と「既婚女性の平均出生児数」です。その背景に、農業の発展や、商工業の発展による都会への人口移動がありました。

さらに、自然的要因による人口増は、主に農村を中心に起こり、やがて都会に波及しました。

願望の多様性が進む、はず

経済成長すれば、実現できる願望は増えます。ですから、「経済的理由で未婚だったけど、結婚できた」とか「経済的理由で子ども数をセーブしていたけど、もっと子どもを産むことにした」ということは起こります。

ただ、「願望の多様性が進むという未来は、不可逆」です。

ここでいう「多様性」とは「豊かな個性」という意味で「何でもあり」ではありません。筆者は、家族観については保守的なので。

各種調査では、結婚願望はもっと高いですから、もっと未婚率を下げることはできます。でも、経済的に恵まれていても未婚を望んでいたりするものを、かつての「皆婚」にまでは戻すことはおそらく不可能です。

一方、「既婚女性の平均出生児数」については、どうでしょうか。

ここで、先に掲げた既婚女性の平均出生数の推移を再掲します。

戦前は、「4人以上の出生」が6割以上でしたが、これはひとまとめにされているだけで、詳しくは、5人、6人、7人、8人、とバラエティに富んでいました。一方、子どもがいない夫婦も現代の倍以上いて、多様な家族の姿が見られたのです。

ところが、戦後になると、多様性どころか「父母と子ども2人」の標準規格家族が過半数を超えるようになります。

この表は既婚女性の一生を追っているので最近のデータはまだありませんが、この表の直近で現代日本の夫婦の子ども数が、2人で5割、2人と3人では8割を超えています(近年は、もっと1人っ子に寄ってきています)。おそらく、全く何の制約もないとすれば、産児制限は限定的で、子ども数は、もっとバラエティに富んでいると思うのです。

子育ての経済的負担

下図は内閣府調査での、結婚している55歳未満の夫婦の「理想の子ども数」と、「現実(予定含む)の子供数」の推移です。1977年から1992年までは、3人以上を希望していた夫婦が50%を超えていたのに、実際(予定含む)に3人以上は、その半分程度でした。もっと、子どもが欲しかったのに現実には叶いませんでした。
しかし、最近では、理想の子ども数が3人とする夫婦が減ってきて、理想と現実が近づいてきています。しかし、これは、はじめから現実的な理想を答えるようになっただけではないでしょうか。

当初は「2人でいい」と考えていた夫婦も、「長男、次男」と続くと、やっぱり「女の子も欲しい」と3人目を望むこともあると思うのですが(逆もあり)。

その理由回答は、下図のとおりです。

複数回答ですが、「高年齢」41.7%とは重複しないと考えれば、「お金がかかりすぎる」59.3%は、ほぼ全夫婦からの回答です

というように、わかりきっていたけど「子育てにお金がかかりすぎる」問題は、少子化の主な原因の一つです。

それに関連して、今、議論になっている「教育の無償化」は、教育にお金がかかる現状はそのままで、自費負担だったものを公費負担にする、というだけのもので、反対です。

子育ての心理的肉体的負担

また、上表で、「これ以上、心理的、肉体的負担に耐えられない」理由で、理想3人を23.7%、理想2人を7.7%の夫婦が諦めていることで、親の負担が経済的なことだけじゃないことがわかります。

少子化で、叔父さん叔母さん、お兄ちゃんお姉ちゃんが減り、近所付き合いが疎遠化し、ちょっと困ったときに、ちょっと助けてくれる、人たちがいなくなってしまいました。

その一方で、昔のような「子供は勝手に育つ」的な自由放任は社会が許しません。親に求める子育ての社会圧力が、高くなりすぎています。

先日、「18歳未満の兄弟と小学校3年生以下の子が一緒に留守番をする」「子供を家に残して、100メートル先の隣近所に回覧板を届けに行く」「子供を買い物に行かせる」等々は虐待、とした埼玉県の虐待禁止条例改正案が、世間の大ブーイングを浴びました。

さすがに、これは現実離れしていましたが、気になるのは、「親は忙しいので留守番を頼まざるを得ない」「買い物を頼まざるを得ない」みたいな反論が多かったことです。これでは、親が子供に対して罪悪感を感じるという点で同じことです。昔の親なら、こんなこと、気にも留めなかったでしょう。むしろ子供の成長のために「留守番の経験をさせるべき」「買い物経験をさせるべき」と言ったのではないでしょうか。「親が多忙なのが問題」なのではなく「親にそれを求めることが間違い」なのです。そういう社会圧力が、不必要に親の負担感を増しています。

それにしても、17歳の時は子守すらさせてもらえないのに、18歳になったら結婚し子供も産めます、って極端すぎます。かつて、兄弟が多かった家庭では、弟や妹の世話をすることで育児を学び、年月をかけて、少しずつ、将来、親になる準備をしてきました。「子供の学び」と「親の負担軽減」が両立していたのです。しかし、現代は、準備不足のまま、家事育児がやってきます。

(現代の)子どもが1人のお母さんと、(昔の)子供が5人のお母さんでは、昔のお母さんのほうが「親の負担感」が5倍だったわけではなかったと思います。そういう状況では、長女が「小さいお母さん」の役割を果たしたりするのです。

子供の心の中には「親に甘えたい」と「大人になりたい」という2つの思いが共存していて、それが、親の負担になったり、助けになったりと、揺れています。現代は、それが前者に偏りすぎていて、親の負担が増しています。後者を促す仕組みが必要だと思うのです。

個人差が大きいですが

現代日本では「50歳の息子に手がかかる」という80歳の親もいます。現代では、昔に比べて子供の数は減ったけど、子供の手がかかる手間や年数は増えていて、親の負担はそれほど減っていないのです。

親の心理的、肉体的負担を減らすためには、「子どもは手がかかる」を減らし「子どもは助けになる」を増やす仕組みが必要です。

現代の教育制度が時代に合っていない

「子育てにお金がかかるなら、国がお金を出せばいい」というのは安直すぎで、

「何故、教育に、こんなにお金がかかるのか?」「何故、親の負担が、こんなに大きいのか?」から問い直すべきです。それは現代の教育制度が時代に合っていないからであり、それこそが政治が取り組むべきことです。

さらに、暴論が炸裂します。

筆者は、中学生だった頃から、学校という仕組みに対してモヤモヤしたものを感じていましたが、イヴァン・イリイチの「脱学校の社会」を読んだことをきっかけに、やっぱりおかしいんだと確信しました。

それは、ほとんどの人が感じていると思います。

これからの時代を生きていくために、学校教育はあまり役に立たないどころか、壮大な時間とお金の無駄になっていると思います。

明治時代に生まれた「学校制度」は、国民を、産業革命後の工業社会に必要な均質な「社会の歯車」に教育する制度です。

政府は、これからの時代、狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会、に続く「Society5.0」を目指すべき未来社会の姿であるとし、世界に先駆けて実現すると言っています。それならば、工業社会の申し子である今の「学校制度」を、存在意義から問い直すときではないでしょうか?

そこが、(先進国に共通する)少子化が問う、真に解決すべき問題ではないでしょうか?

今回のテーマは「少子化」なので、以上で終わりですが、最後にこれから求められる「学校制度」のイメージを書いてみます。

学校という制度

筆者は、児童福祉の観点からも義務教育は必要だと思いますが、

義務教育の担い手は自由でいいと考えています。その意味で、「教育の機会均等法(2017年)」は、学校独占を崩した点で画期的だと思います。

世間的には不登校対策としてしか注目されていないけど。

とはいえ、筆者は、学校制度廃止を主張するわけではありません。学校は、社会性を学ぶのに役立つ制度です(学校以外の方法でもいいです)。

平たく言えば、友達をつくること

「今の時代、YouTubeを観れば何でも学べるから、興味が出てきたら観ればいい。学校は要らない」と言う人もいます。でも、基礎ができている人がYouTubeで応用を学ぶことはできますが、基礎ができていない人は、なかなか、YouTubeとかでは学べないです。なぜなら、基礎ができていない人は「何がわからないのか、わからない」からです。また、子どもの場合は、子どもの反応を見ながら、理解度を判断し、それに合わせて、教え方や教える内容を変えるといった双方向コミュニケーションが必要で、一方通行では「YouTubeを一通り観たけど、何を言っているのかさっぱりわからなかった」になってしまうのです。基礎力をしっかりつける役割は、学校向きだと思うのです。

などなど、教育論は尽きないですが、今回のテーマは「少子化」なので、それに関連することに絞って書いていきます。

義務教育

(上で引用した)NHK連続テレビ小説「おしん」では、おしんは7歳で(酒田有数の米問屋)加賀屋に奉公に出されたあと、子守りから始めて、16歳になったときには、家事全般から店の帳場まで、加賀屋でも、子供なりに頼りにされる立場になっていました。

子どもの能力の例として出しただけで、昔の児童労働を是としているわけではありません。

おしんは頭のいい子供でしたが、現代に生きる子供たちと比べて、特段、能力に違いがあったわけではありません。

何が言いたいかというと

現代日本の「働きながら子育てをするお母さん」は、大変な状態に置かれています。夫は、もっと家事・育児参加すべきだ、という主張は全くそのとおりですが、子どもの家事参加はどうなのでしょうか?

昔と比べて、ずっと減っています。期待されていないから、そして、誰も子供に家事を教えてくれないからです。でも、潜在能力は十分だと思います。

かといって、忙しいお母さんが(自分でやるほうがずっと速いと思いながら)、辛抱強く、子供に家事を教えるなんて無理です。

戦前の高等女学校では、時間割の3割以上が、家事、裁縫など家庭運用関連でした。食は家族の健康のバロメーターであるように、どんなに技術が進歩しても、家事知識は重要です。有事や災害で都市機能が麻痺したときの生活力も必要です。男女共に、家事を学ぶことは、けっして、悪いことではないと思います。

それならば、子どものうちに、十分に家事生活能力をつけておくことが、子どもの将来のためだと思います。

そこが、教育の役割です。子供に役に立つことを教えるのが教育なら、将来、役に立つか立たないかわからない知識を詰め込むより、家庭で役立つこと、お母さんの負担を減らすことを教えたほうが、ずっと良いのではないでしょうか?

もちろん、単純に家庭科の授業を増やせばいいというようなことを言っているわけではありません。家事だけのことではありません。

「自分や家族の役に立つことは何?社会の役に立つことは何?だったら、学校で学ぼう」という
「役に立つことを学ぶ場所が学校だよ」という本来、当たり前のことを、親にも子どもに認識させるところから始めませんか。

一方で「どうせ何の役にも立たないし、期末試験の前に一夜漬けすればいいや」と授業中にボーッとしている時間は無駄だから、そんな授業そのもの止めてしまいましょう。

興味のないことを子供の頭に詰め込もうとしたところで、右から左に抜けていくだけです。

子どもは、興味の有ること無いことでは吸収力が全く違うので、すぐに役に立つこと、興味があることを教えたほうがずっと教育効果が高いのです。

学校での無駄時間は除去して、有効なことに使いましょう。

筆者の学生時代、日本史の授業は、パヨク教師だったため、共産主義の階級史観教育を受けていたようなものでした。思うに、日本史が履修科目に入っているのは「日本国民たるもの、日本の歴史ぐらい知っておくべきだ」という政府の意図で、子ども側のニーズではないんですね。そして、実学でないから、政府の意思に反して、教師の価値観に左右されてしまったのです。

筆者は「日本国民たるもの、日本の歴史ぐらい知っておくべきだ」とも思うけど、学校で日本史の授業があったところで、興味がなければ居眠りタイムになるだけで、授業科目としては要らないと思います。

いつか、歴史に興味が出てくるときもあるだろうし、「日本史を学ぶ必要がない」のではなく「学校で学ぶ必要はない」です。

他の教科も同様で、これからの義務教育に求められているのは「学校で全部学ぶこと」ではなく「生涯を通して学ぶための基礎力を身につけること」ことなのです。

それに加えて、学校では「今、子どもの役に立つ」ことを教えたらいいと思います。

「役に立つことを学ぶ場所が学校だよ」のスタートは、「家事」がわかりやすいです。

ただ、「子どもを無駄時間から解放する」ことが出発点であって、そうでないと「忙しい子どもに、さらに家事の負担を強いるのか」となってしまいます。

現行の学校カリキュラムは、親にとってコストパフォーマンスが、子どもにとってタイムパフォーマンスが、余りにも悪すぎて、過重な子育て負担に繋がっていると思います。

高等教育

しかし、「進学」がある以上、「役に立つ勉強」が「上の学校に進むための勉強」になりがちで、その「進学」を問い直す必要が出てきます。

令和2年度の高等学校等への進学率は98.8%です。高すぎませんか?

現代日本にある仕事のうち98%の仕事は、中学卒業の学力では足りないのでしょうか?

筆者は、若く頭が柔らかいうちに社会に出て、また、学びたくなったら学び直すほうがずっといいと思います。社会に出ることで、何を学ぶべきなのかわかることは多いです。

今後、AIが普及して、人による単純労務の需要が益々減ってくると、最後に「人の優位性」として残るものは、対人コミュニケーションなど「社会性」です。

25歳の学生よりも、19歳の社会人のほうが、ずっと大人です。子どもは、大人の世界に触れることによって大人になるのです。

中学卒業時点で、将来の仕事を決めている子供は、その道に進むために上の学校に行けばいいと思います。でも、進路を決めかねている子供は、とりあえず上の学校に行くのではなく、とりあえず社会で働くように促してはどうでしょうか?

人手不足時代の令和では、「令和の金の卵」です。

「とりあえず上の学校に行く」は、学歴主義の名残りに過ぎないんじゃないでしょうか。

それは、必要を感じない勉強を延々とさせられる状態から子どもを救済しますし、早く社会人になることで、親の経済的、心理的、肉体的負担も随分と軽減します。

教育制度をこれからの時代にふさわしく作り替えることで、無駄時間を除去し、子どもにとって本当に役に立つことを教育内容とすることで、家庭に経済的余裕が生まれ、それによって、親にも子どもにも時間的にも精神的にも余裕が生まれます。

少子化の解決は、そのあたりから行動する必要があるんじゃないかと思います。

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