ベーシックインカム(BI)と「子ども食堂」

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いつにもまして、筆者の願望がふんだんに入っています。

まとめ

  1. 昔は「人と人との繋がり」の中で解決していた問題を、現代では「お金」で解決するようになった。将来の日本を論じるときも、ほとんど、お金の話ばかり。
  2. お金の特徴である「交換機能」や「貯蔵機能」は、無駄や不正につながりやすい。また、お金を給付しても、解決できないことも多い。
  3. 役所の福祉は、最後の砦として必要。でも、福祉の充実までは、どうか?
    一方、民間のチカラは……。

今回は、「貧困」という問題に対して、
専ら、お金で解決しようとする「ベーシックインカム」と
食事の提供に取り組んでいる「子ども食堂」を取り上げます。

ベーシックインカムが対応しようとする社会保障は、年金、介護、障害福祉、等々、範囲が広いですが、ここでは「貧困」という切り口で「福祉」という言葉を使っています。

前・後 ページに分かれています

お金を提供するベーシックインカム(BI)

ベーシックインカムとは、全員に同じ額を定期的に給付するという制度です。
国民全員に、年100万円ずつ配れば、100兆円以上の財政支出になります。

日本維新の会竹中平蔵氏などが導入を主張しています。

これについては、筆者は、既存の複雑な社会保障制度をガラガラポンでチャラにできるなど、利点もあると思います。

ですが、残念なことに、議論の大半が「そんな財源はどこにあるんだ」という財源論になっています。じゃあ、財源の心配がなければどうなんだろう、と気になります。
そこで「税金を取らない設定」で考えることとしました。

まず、設定を説明します。
国民は5人。他の国との輸出入はありません。お金をコインで、国内で生産される物サービスは、ハンバーガーで表します。


コインの総額と、ハンバーガーの総額は一致します。売買が成立するということは、物の価格とお金の額が一致するということですから当然ですね。

実際の社会では、眠っている物サービスや、眠っているお金がありますから、実際には、このようになりません。あくまで、考え方です。

皆の所持金が同じであるとき、手に入れるバーガーは?

それでは、まず、お金を増やしたり減らしたりします。

最初は、皆、所得水準は同じ設定とします。

1人が2コインずつ、全員で10コイン持っています。バーガーは10個あります。

このとき、バーガー1個の値段は、1コインです。

政府が、1人につき、2コインを配ってくれました。1人につき、4コイン、全員で20コインになりました。

バーガーは10個あります。このとき、バーガー1個の値段は、2コインに値上がりしました。

皆、お金は増えたけど、手に入れることができるバーガーの数は変化しません。

ここから後は税金を取らない設定ですが、比較のために政府が1人から1コインずつ税金を取ったと仮定します。

1人につき、所持金は1コインになってしまいました。

全員で5コインです。バーガーは10個ありますので、1コインで、バーガーを2個買うことができます。

税金は取られたけど、手に入れることのできるバーガーの数は変化しませんでした。

政府は、お金を発行することはできても、それだけで、国民を豊かにすることはできません。豊かさは、お金ではなく、お金で購入できる物サービスがもたらしてくれるからです。お金が増えても、国内で生産される物サービスの量と質が変わらなければ、お金の相対的価値が下がるだけで、変化がありません。

この例では、市場にお金が増えたり減ったりする原因について、政府による給付(減税)や増税について書いていますが、民間銀行での運用や借入れも、同じように、お金を増やしたり減らしたりしますので補足しておきます。
政府が毎年、莫大な財政支出をするのに、インフレがなかなか起きなかったのは、家計がそれを上回る預金を続けて、結果、お金が増えなかったことも一因なんだろうと思います。

ちょっと面倒くさいけど、小学校低学年程度の算数なので、計算しながら読んでくださいね。

経済格差があるとき、手に入れるバーガーは?

さて、ここで、5人の国民に経済格差をつけてみます。


1人で10コインを持つ人から、コインを持たない人まで、全員で20コインです。一番の金持ちは全体の50%のお金を持っています。
バーガーは、1個につき2コインになります。貧しい人はバーガーを買うことができません。

ベーシックインカムを導入したとき、手に入れるバーガーは?

さて、ここからが今回の本題です。政府はベーシックインカムを導入することにしました。

バーガーは1個で2コインなので、貧しい人でもバーガーを買うことができるように、全員に2コインずつ配ることにしました。
その結果、コインを持っていなかった人は2コインを手に入れました。10コインを持っていた金持ちは、12コインを持つようになりました。5人に2コインずつ配ったので、全員で、30コインになりました。
あれ、気がついてみると、バーガーが10個、コインが30個ですから、バーガー1個につき3コインに値上がりしています。これでは、貧しい人はバーガーを手に入れることができません。

政府は、全員に3コインずつ配ることにしました。ところが、またバーガーは値上がりします。

そこで、政府は全員に4コインずつ配ることにしました。バーガーが10個、コインが40個ですからバーガー1個の価格は4コインです。

最も貧しい人でも4コインを手に入れましたので、バーガーを買うことができました。

めでたしめでたし。

ではありません。全体のバーガーの数に変化はないのですから、バーガーを手に入れることができた人の分だけ、手に入れることができなかった人が出てくるのです。

もともと、コインを10個持っていた人は、4つ増えて14個になりましたが、購入できるバーガーの数は、5個から3・5個に減りました。

もともと、コインを6個持っていた人は、4つ増えて10個になりましたが、購入できるバーガーの数は、3個から2・5個に減りました。

購入することができるバーガーの数で考えてみると、もともと、多く持っていた人ほど、多くを失います。なんのことはない。累進課税と同じです。

税金は取られませんでしたが、手に入れることのできる物サービスで計算してみると、累進課税をかけられているのと同じことだったのです。

お金で税を徴収しなかった代わりに物価が上がり、インフレ税を払うことになってしまいました。

このように、べーシンクインカムは、高所得者ほど多くを負担する仕組みです。さらに、その財源を累進性のある所得税で補うとすれば、累進性がさらに高くなります。

「負の所得税」に一見、似ていますが、それよりも、かなり、平等主義的な仕組みです。

貧困の抜本的な解決は、バーガーの生産力を上げること以外にないのですが、だとしても、そこからこぼれ落ちる人は出てきますので、貧困から救済する仕組みは必要です。

そこで、ベーシックインカムの議論が問いかけているのは、「恣意的」な制度ではなく「機械的」な(お金での)救済の仕組みのほうがいいのではないか、ということです。確かに、役所の恣意性を排除するという利点があります。でも、

結論を先に書くと、筆者は「機械的」な仕組みに反対です。

それは、(冷血鬼と言われそうですが)一定以下の所得層に無条件でお金をあげることに反対だからです。

経済的に自立している人であれば、経済的自由は最大限に尊重されるべきです。しかし、経済的に自立していない人が「指図するな。金だけくれ。」は違うだろうと思います。

財源に関わらず、「お金を貰う」時点で、他人(援助者)の経済的自由を損なっています。そのお金は、本来は援助者のものです。だったら、そのお金の使い方においても、その援助者の意思を尊重するのが当然です。援助者が納得できる最も有効な使われ方がされるような方法で、援助を受け取ってもいいんじゃないかと思います。

機械的にお金を配るだけでは、解決しない

世の中には、お金を稼ぐことが上手な人と下手な人がいるように、お金を使うことが上手な人と下手な人がいます。お金を使うことが下手な人に、「お金をあげるから、あとは自己責任でやりなさい」と言っても、セーフティネットにはならないと思います。
筆者も福祉の片隅で、多くの貧困家庭と関わってきましたけれども、計画的にお金を管理できない、収入があるとパーッと使ってしまう、もっと具体的に書くと、子どものためのミルク代を自分の酒代にしてしまう親もいます。
もし、親が小学生の子どもに対して「生活費をあげるから、自分で生活しなさい」と言ったとしたら「なんとひどい親だ」と非難されるでしょう。でも、現実には、小学生レベルの金銭観の大人もたくさん、いるのです。

お金には魔力があるので、それまでは真面目に働いていたのに、宝くじで大金を得たばかりに生活が派手になり、お金が底をつき、そのまま破綻するような人もいるのです。一度、コツコツ働くことが馬鹿馬鹿しくなってしまったら、なかなか、元に戻れないです。

お金を配っても、解決できないことは多いです。いや、お金が人生を狂わせることも多いです。

「家計を管理監督すべし」とか、そういう意味では全くないです。それでは、自立が遠のきます。自立を目指すためには何をすればいいかという話です。

また、「生活が保障されれば、新しいことにチャレンジする人が増える」という意見もありますが、新しいことにチャレンジする人は必死ですから、その生活費もつぎ込んでしまうだろうと思います。

お金には「交換機能」「貯蔵機能」がありますが、「生活必需品のために給付されたお金を嗜好品購入に使ってしまう」「必要のない人が受け取って貯蔵してしまう」という欠点にもなります。お金の特徴は「最低限、必要なものを保証する」という目的には、馴染まないです。

あるいは、先月までは普通に働いていたのに、事故や病気で働くことができなくなった場合など、お金さえあれば、これまでの生活が維持できるような場合もあります。それであっても、今後についての助言指導を必要とすることが多いでしょう。

いったい、「お金だけあれば、今後もそれで済む」という貧困者がどれだけいるのでしょうか?

現状の、役所縦割りの生活保護ケースワーカーを見ているから「あれだったら、頼りにならない。金だけくれればいい」と思ってしまうのです。

児童相談所にしろ、福祉事務所にしろ、役所のソーシャルワーカーは、担当領域以外のことは無関心です。それは、知識不足というよりも、縦割りなので他部署のことに口を出せないという理由が大きいです。これは、役所の本質です。

いろんな事情、状況を確認して、それぞれに応じて対応すべきで、無条件に一律現金給付だけをすればいい、とは思えないです。

また、ワーキングプアの原因であるブラック企業では、ベーシックインカムが導入されると、「これで給料はもっと少なくてもいいな」とされてしまう危険はありませんか?

ということで、筆者は「機械的」な救済の仕組みには反対です。といっても、「恣意的」に、お金を配ればいいというわけではありません。

お金の議論ばかりしているのが、違うんじゃないかなと思うのです。

人と人との繋がりが煩わしいと、お金で解決する現代日本

「助け合いって何?」「お金で出来ることって何?」という本質的な議論が抜けていると思うのです。

まず、政府の役割って、何でしょう?
安心安全の提供だったり、暮らしやすい環境を整えたり、いろいろありますが、そういったものは、お金の提供ではなく、実物の提供をするほうが、ずっといいのではないでしょうか?

例えば、「日本人は安全はタダだと思ってる」と言われます。治安の悪い国では、誘拐などから家族の安全を守るためにガードマンを雇わなければなりません。もし、日本がそんな国になったらどうでしょうか。政府が「お金をあげるから、自己責任で自分の身を守ってください」と言ったらどうでしょうか。ふざけるな、と思いませんか。「お金をあげる」とは、政府の責任放棄のように思えませんか。

 日本では、義務教育だけでは不十分なので、子ども達を塾に通わせる家庭が多いです。塾代を補助する自治体もあります。いや、政府がしっかりと義務教育で身につけるべき学力をつけさせるなら、塾代も必要ないのではありませんか。

民間でできないことをするのが役所なのに、お金で解決って、おかしくないですか?

昔は、短期間、育児ができない事情が発生したとき、近所や知り合いが預かって面倒をみたりしました。でも、最近は、役所にお金を払ってショートステイさせることが増えています。
「役所が便利になった」
そうなんでしょうか?
かつては、「人と人との繋がり」の中で解決されてきたことが、お金で解決になっただけではないでしょうか。

「人と人との繋がり」は、煩わしいけど温かい、鬱陶しいけど有り難い、ものです。煩わしいとか、鬱陶しいとか、そればかりが気になりすぎて、お金で解決できるならお金で、という方向に行き過ぎたのではないでしょうか。

政府のせいとは思いませんが。

プライバシー意識の変化もあります。

「子育てにお金がかかりすぎる」と、少子化が進んでいます。そして、「子供の将来のために」と言って、お金の論議ばかりしています。

少子化はお金の問題ばかりでもありませんが。

子供たちの将来のために、創りたい社会はどんな社会でしょうか。

昔の日本人は「宵越しの金は持たねえ」を粋としていました。そこから、相当に豊かになったはずなのに、「老後に二千万円が必要だ」と言われ、もっと働いて、もっとお金を貯めなきゃダメだと強迫されています。お金のハードルは、エンドレスで、どこまで行っても、ますます高くなりそうです。

お金がかかることを前提に「どこからお金を持ってこよう」の議論に終始していますが、筆者が政府に望むのは、あまりお金がかからないですむような社会基盤を作ることです。


お金は確かに便利です。でも、その便利さゆえに、ある人は必要以上に手に入れてしまう一方で、ある人は不足するということが起こりやすいです。お金の長所である「交換機能」や「貯蔵機能」は、無駄や不正につながりやすいです。

そこで、「お金ではない」福祉も考えてみようと思い立ちました。

事例にしたのが「子ども食堂」です。食事の場合は、どんな貪欲な人でも腹一杯食べても限界があります。「お前は食べ過ぎだ」が不正なら、可愛いものです。

コメントをどうぞ!

  1. アバター画像 Tomy より:

    公助の仕組みは大きな政府にしますが、結果的に困っている人に中抜きや事務費や利権で僅かしか届かないという構造問題があるなら、共助の仕組みを大きくする方がより困ってる人にも福祉に携わる人にも国の富が循環しそうですね。欧米が寄付文化なのはキリスト教ゆえかもしれませんが、日本も古来から神社やお寺を中心としたコミュニティで共助してきた文化を取り戻すべきかもですね。

    • アバター画像 週末ボカロP より:

      民間団体にも中抜き問題はありえますので、情報公開と競争原理は大切と思います。
      また「日本人に寄付は馴染むか?」については、わかりませんが、まず、話題になったり、関心を惹いたりしないと始まらないと思います。