不味い飯屋の不味い定食800円も
美味いレストランの美味い定食800円も
(コストを同じとすれば)GDPへの寄与も同じです。
でも、ずっと不味い飯を食べていたのに、美味い食事になったら「豊かになった」と感じますよね。
つまり、GDPは、そのまま豊かさを表しているわけではありません。
当然にコスパの良い方に人気が偏りますので、「需要が減退している。GDPギャップを埋めろ」というのは、単純にいうと「美味いレストランは満席だが、不味い飯屋はガラガラだ。不味い飯屋の空席を埋めろ」ということです。でも、不味い定食ではなく、美味い定食を食べたいですよね?
内閣府等の算出する潜在的GDPは平均概念なので、「満席にしろ」とは異なりますが。
「政府が不味い定食に500円のクーポンを補助すれば、消費が活性化し経済は拡大する」とか主張する人がいます。でも、何で経済活性化のために、不味い飯を食べる必要があるんです?500円減税して500円分の自分が食べたい美味いものが選択できるようにしたら、もっといいんじゃないですか?
もし、割引クーポンを配って不味い定食を国民に食させたとしても、クーポンが切れたら、もうこないでしょう。延々とクーポンを配り続けなければなりません。
「いや、減税ではなく財政支出だ」という人は「だって、減税では預金に回るから」と言います。それこそ、需給ギャップを埋める必要性の否定ではないでしょうか?
GDPギャップを解消しようとする政府の努力
別の例えをします。
GDPギャップ(需給ギャップ)。下の図では、日本国内の全ての物サービスを携帯電話(端末)で、象徴的に表してみました(実際の携帯電話のことではありません。実際には、昔風の携帯電話の生産ラインなど、国内からは消えていると思います)。
この図が象徴的に表している、時代遅れの物サービス、時代遅れの産業は、まだまだ国内に多くあります。消費者から、そっぽを向けられているのに関わらず。
「需給ギャップ(GDPギャップ)を埋めろ」という人たちは、政府がお金を配れば、消費者離れを起こしている時代遅れの物サービスが、購入されることがあると考えているのです。ありえにくいですし、あったとしても満足度は低いです。
多くの場合、要らないものはお金があっても要らないので、需給ギャップは埋まらないのです。
需要が低迷している主因は、「購買力がない」からではなく「国内で生産される物サービスに、欲しいものがない」からです。
欲しいものがない。それが、国民家計の預金高が過去最高に積み上がる結果となっています。
実際には、高齢者世帯と現役世帯のアンバランスなどの要因も大きいのですが、今回は触れません。
衰退産業を守ろうとする政府の努力
GDPギャップを埋めるという政策は、愚策です。では、政府はなぜ、弱い産業、特に衰退産業を助けよう助けようとするのでしょうか?
政治の役割は弱いものを助けることにあるから?
そう、政府にとって、困っている国民、弱い国民を助けるのは、大切なことです。でも、助けるべきは、弱い国民であって、弱い産業ではありません。
国民がオンボロ船に乗っていて溺れる危険があるのなら、国民がオンボロ船から堅固な船に移るのを助けるべきであって、オンボロ船への浸水を一生懸命に掻き出しても、徒労なだけです。
政府が衰退産業の保護に力を入れるのは、「政治は数が力」だからです。
これから衰退していく産業というのは、今は多くの人を抱えていて、どんどん人が減っていく産業です。これから伸びていく産業は、最初はごくわずかのチャレンジャーだけが従事していて、将来、人が増えていく産業のことです。今は、衰退産業が多人数、成長産業が少人数。
本来、産業というものは、消費者に対して訴えかけます。これから伸びようとしている産業は、なおさらです。しかし、衰退産業は、すでに消費者から見捨てられているので、もっぱら政治に訴えかけるのです。成長産業と衰退産業の対決は、消費者の支持では成長産業が圧倒的優位ですが、政治力(票の数)では衰退産業が圧倒的に勝ります。
この結果、政治がおこなうのは、成長産業から奪い、衰退産業に配る再分配です。
「政治は再分配」と言われますが、再分配は二度、おこなわれます。税金の徴収と、財政支出です。
税金をほとんど払わない衰退産業が、多くの財政支出を受けます。
つまり、政府は、経済強者(消費者を豊かにすることで、消費者の支持を多く得た者)から多くを奪い、政治強者(政治家や官僚から気に入られた者)を配るのです。
だから「GDPギャップの解消」などという、経済学的にもっともらしいようで、実は国民にメリットのない政策が、おこなわれるのです。
国民の自由意志を阻む政府の努力
もう一度、レストランの例えに戻ります。
政府はすべての国民に健康で文化的な生活を保障しています。ですから、もし、国民が食糧不足で飢餓に苦しむことがあるなら、食料を用意する義務があります。それは、政府(役所)の仕事です。でも、それ以上は、民間の役割です。
役所と民間の役割分担の違いは、こんな感じです。
「民間」の自由売買とは、客が「カレーライスが食べたい」「ハンバーグが食べたい」と、それぞれ注文し、コックが、それに応じて調理して提供するというものです。
カレーライスを食べたい人が五人いれば、五つをまとめて調理する方が効率的です(大量生産方式ですね)。
一方、「役所」は「配給」すなわち給食方式です。民主主義に則って、多数決を採り、多くの民意を得た料理を皆に配ります。カレーライスが多数を得れば、自分はハンバーグを食べたいとしても多数に従わなければなりません。「アベノマスクは不細工だなあ」と多くの人が思っていても、強引に押しつけられてしまうのです。
普通に考えて、食べたいものを食べたいですから、食材もコックも十分であれば、民間方式が良いに決まっています。しかし、コックの数や食材が限られていれば、皆が満足するためには、役所(給食)方式のほうが上手くいくかもしれません。
つまり、後進国経済では役所による経済主導は、それなりに良いのです(明治や、戦後の日本)。でも、先進国経済では、不満足、不都合の方が多いです。
「GDPギャップを埋めろ」政策の発想は、質は無視して量だけを考える発想なのです(量を実現する政策としても、いまいちですが)。
役所の提供する「豊かさ」は、社会の構成員全員に対する公平なものです。一方、民間企業の提供する豊かさは、個人の必要や嗜好に添ったきめ細やかなものです。
例えば、日本酒が好きな人は、高級な純米大吟醸酒が出されれば、豊かさを実感するでしょう。しかし、筆者にとっては日本酒に興味がないので、不味い飲み物でしかありません。もし、日本酒が好きな人が増えれば、日本酒市場は拡大します。もし、日本酒人気が完全に消滅すれば、日本酒の蔵元は消滅します。市場はそのようにして、消費者の満足が最大化するように提供する物サービスの生産を調整します。
民間企業と消費者との「売買」を通して、消費者は自分が望む「豊かさ」を伝え、実現します。民間企業による経済の拡大は、消費者の豊かさの拡大です。
一方、役所がおこなうのは、個々人が豊かさを求めての売買ではなく、政府の意思の押し付けです。もし、日本酒が全国民に配給されても、日本酒が好きじゃない人にとっては大迷惑です。「高級な純米大吟醸酒は豊かさの印」とか言われても、押し付けがましいだけです。
以上、百歩譲って、「不味い定食を好む人もいるんじゃない」という仮定に立ったとしても、政府の意思の押し付けは、国民の豊かさにはならないです。
何がその人にとって「豊かさ」なのかは、その人が決めることです。ン万円の純米大吟醸酒よりコーラの方が良い人もいます。さらに言えば、お金だけが豊かさの指標ではありません。「時間よりもお金」の働き人もいれば、「お金より時間」の趣味人もいるのです。お金だけを再分配しても公平ではありません。
何が自分にとっての豊かさか?それは数字でも金額でも表せません。数字を適当に組み合わせて、わかったようなことを論ずるのはやめてもらいたいものです。
その中でも「GDPギャップを埋めろ」は、もっともタチが悪いものだと思います。経済成長とは、GDPが増えることですから、数字の上でGDPを増やせば経済成長したことになります。でも、それでは、国民には益がありません。
それは、不味い飯屋で働いている店員にとっても不幸なことです。仕事とは、誰かの役に立つことをして、そのお礼として報酬をもらうことです。誰かの役に立つことが仕事の本質です。他の仕事に転職すれば、あるいは業種転換すれば、誰かの役に立つことができるかもしれないのに、政府がそれを防いでいるのです。それは、優しい政府のようで、むごいことです。
そもそも、これからの日本は、恐ろしく人手不足で、働き手はとても必要とされているのです。
生産年齢人口が減り続けるなか、求人倍率は増え続けており、コロナ前の2018年には、1.61倍と、バブル期1990年の1.40倍を超えています。
「経済が低迷しているから雇用を作れ」という状況ではありません。経済成長が低迷しているとすれば、消費者が必要としているところではなく、必要としていないところに労働者が滞留しているからです。
話が拡散しそうなので、ここまでにしますが、国民がオンボロ船に乗っていて沈んで溺れる危険があるのなら、政府は国民がオンボロ船から堅固な船に移るのを助けるべきであって、オンボロ船への浸水を掻き出すことに夢中になるのはやめてもらいたいです。
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