イスラエルとパレスチナのWIN-WIN【中編〜歴史】

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この投稿は、上の投稿の続きです。

中編は2ページに分かれています

この章では、歴史を振り返ることとします。歴史を振り返るのは「土地がどうだ」と既得権を確認するためでも、「どっちが悪い」を確認するためでもありません。

「なぜ、問題が起こったのか」よりも「なぜ、いつまで経っても解決しないのか」のほうが、はるかに重要であり、その原因を除去するためです。

第一次世界大戦まで

歴史を、かなり端折ります。

パレスチナのユダヤ人

紀元前10世紀ごろ、パレスチナの地で、古代イスラエル王国が建国されます。この当時、古代ユダヤ人とペリシテ人が争っていましたが、ペリシテ人との戦いで功績のあったダビデは、初代国王の婿、2代目国王となります(ダビデ王は、ミケランジェロの彫刻で有名)。

その後、ペリシテ人は歴史から消えますが、後に、ユダヤの反乱を受けたローマ帝国は、この地をペリシテ人にちなみ、パレスチナと名付けます。

その後、王国は南北に分裂し、北のイスラエル王国は紀元前721年に滅亡、南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされます。その際に、ユダ王国から多くの捕虜がバビロンに連行されますが、ペルシャが新バビロニアを滅ぼしたことで帰還します。

このことから、ユダヤ人は歴史的に、ペルシャ(イラン)に好意を持っています。

今では考えられませんが、イランは、1979年のイラン革命が起きるまで、親米で、イスラエルとも長距離ミサイルの共同開発をするなど軍事的にも協力関係にありました。イランはペルシャ人の国であってアラブ人の国ではないので、「アラブvsユダヤ」から距離を置いていました。

その後、宗主国は次々と変わり、最終的にローマ帝国の属州となります。それに伴い、商人としてローマ帝国内の各地へ移住するユダヤ人も増えていきます

紀元66年にユダヤ人は反乱を起こして鎮圧され、自治と属州の地位を失います。起源132年の反乱では多くが殺されます。それらの過程で残ったユダヤ人は、一部を除いて世界に離散しますが、その地でユダヤ教徒として宗教的結束を保ちます。世界各地で土着したことで、白色人種、黄色人種、黒色人種、と外見では多様になります

一方、パレスチナに残ったユダヤ人の一部はキリスト教徒となり、この地のキリスト教会を守ります。ビザンチン帝国の時代、4世紀から7世紀の間はパレスチナ(今と領域は異なる)の人口が100万人を超えて、ピークとなります(この後、相当に減っていきます)。その多くがキリスト教徒でした(ユダヤ教徒との比率には諸説あり)。

その後、イスラム教徒がパレスチナを征服し、少しずつイスラム教への改宗が増えていきます。11世紀から13世紀には十字軍がエルサレム王国を創ったことで、またキリスト教徒が逆転します。その後、イスラム教徒がパレスチナを再奪還し、イスラム教徒が多数派を占めるようになります。これらの期間を通して、人口は最大のときで30万人程度と推定されているようです。

どちらであれ、ユダヤ教以外に改宗したものは、アラブ人と呼ばれるようになります。

キリスト教社会でのユダヤ人

その後、ヨーロッパのキリスト教社会に移り住んだユダヤ人は、13世紀ごろから、土地所有を(重税により)制限され、多くの国で金融業などに特化していきます。

その背景に、それまで社会弱者向けに貸金をしていたカトリック教会が「利息を取ることは卑しい」という風潮が広まり撤退していったことがあります。

14世紀の西欧では黒死病(ペスト)が大流行しましたが、ユダヤ人が毒配布しているという根拠で、各地で、ユダヤ人が虐殺されたり、ゲットーが作られて隔離される地域も増えていきます。ユダヤ人の多くは東欧などに逃れます。

その後、差別、迫害、虐殺、追放されることがある一方で、資本主義が発達するにつれ、金融業から各産業に手を広げて、ユダヤ人の経済的成功が目立つようになります。

時代が経つにつれ、ユダヤ人の経済的繁栄、ユダヤ人への嫉妬と迫害が、ますます加速します。

19世紀になると、ユダヤ人が国際ネットワークを使って世界支配の陰謀をめぐらすというユダヤ陰謀論が、蔓延るようになります。

オスマントルコ帝国でのユダヤ人

さて、中世ヨーロッパでユダヤ人が迫害された一方、15世紀ごろに大勢力となったオスマントルコ帝国は、ユダヤ人の金融・商業などの能力に着目し、積極的に受け入れます(冷たくされた時代もあります)。

特に、テッサロニキ(現在はギリシャ第二の都市)は、16世紀から20世紀初めにかけて、ユダヤ人が多数派を占め、繁栄した都市です。

しかし、トルコからギリシャの領土となって、ユダヤ人が減りはじめ、第二次世界大戦でナチスドイツに占領され、ユダヤ人人口の9割が殺害されます。

何世紀もの期間をかけて、多くのユダヤ人が、ヨーロッパからオスマントルコ領内(都会を中心)に移住しました。

この頃、シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナの一体は、まとめて、シリアと呼ばれ、オスマントルコ帝国の支配下にありました。(中世の欧州からはレバントと呼ばれていました。)

豊かな地であるシリアやレバノンとは違って、水源に乏しい(現在の)ヨルダンやパレスチナは、治安も悪く、マラリアが蔓延し、集落は北部やヨルダン川沿いなどに散在するだけで、少数のアラブ人と、もっと少数のユダヤ人、住民が非常に少ない辺境の地でした。

つまり、現在のイスラエル国民やパレスチナ自治区、難民の先祖は、ほとんど、これ以降に移住してきた人たちです。

転機が訪れたのは、1831年に始まったエジプト・トルコ戦争で、この地域が10年ほどエジプト領になったことです。1834年に、エジプトによる徴税や徴兵(ほぼ終身)への反発から農民反乱が起きます。戦闘や反乱後の過酷な処罰でパレスチナの男性人口が5分の1にまで減ったといわれています。一方で、エジプト人(アラブ人)が移り住んだりしました。

1850年頃にパレスチナの各地を回った、イギリスの外交官でエルサレム領事だったジェームズ・フィンによる旅行記「パレスチナでさよなら」をWebで読むことができます。

私はその近所にたくさんの村があり、完全に崩壊していたが、遺跡の周囲にはイチジク、ブドウ、オリーブの木の庭園が今も生い茂っていることについて話した。(略)

そしてユダヤ人はこの国のよく知られた諺を引用した。イスラム教のシャイフも息子とともに朗読に加わった。

「イスラエルの子らは築き上げた。
クリスチャンたちはそれに続いた。
イスラム教徒は破壊した。」

「パレスチナでさよなら」

と書いています。

1867年に、この地を訪れたマーク・トウェインは

雑草が一面に生い茂っている荒れ果てた地方・・・道すがら、人の影は1つも目にとまらない。・・・どこも、樹木や茂みはほとんど存在しなかった。荒地とすぐ親しくなるオリーブやサボテンさえ、この地をほとんど見捨てている」

「地中海遊覧記」マーク・トウェイン

と書いています。

当時、イギリスで出版された「クックの観光客ハンドブック」では、

(パレスチナは)世界のどの国よりも、廃墟となっている。何マイルもの間、現在の生活や住居の外観が存在しない。

パレスチナとシリアのためのクックの観光客ハンドブック(1876年発行)

と。紹介されています。

このあたりから、少しずつ、この地の人口が、アラブ人を中心に増えていきます。

1859年から1869年にかけて、すぐ南でスエズ運河が建設されましたが、少なくない労働者が故郷に戻らず、パレスチナに住み着いたと言われています。

アラブ人は苗字で出身地がわかるそうですが、パレスチナ難民は、エジプトにルーツを持つ人が多いそうです。後に、初期の反ユダヤ闘争を指導したアミーン・フサイニーはエルサレムの有力な名家の出ですが、この頃にエジプトから移住してきました。

日本の幕末に、欧米列強が次々とやってきたように、19世紀後半には、ヨーロッパの帝国主義が膨張します。オスマントルコ帝国は、バルカン半島の領土を次々と失い、その地に住んでいたイスラム教徒の多くは、西アジアに移住します。

人口移動が、あちこちで起こっていました。

パレスチナへも、かつてのトルコ領内のほか、ロシアの侵略を受けたコーカサスのチェルケス人(イスラム教徒)、フランスの侵略を受けたアルジェリア人(アラブ人)、など、各地から人が集まってきました。オスマントルコ政府も、パレスチナへの移住を推奨しました。

それでも、1870年代末の人口は、定住していない遊牧民も含めて38万人(うちユダヤ人は2万7千人)でした。1890年代に入ると、鉄道建設などの需要があり、さらに人が集まってきます。

現在は、1000万人を大きく超えていますから、今と比べると、人が全然いないという状況でした。

さて、ユダヤ人ですが、1881年、ロシアでの迫害に対して「シオンの恋人たち」が設立され、1882年、ルーマニアのフォクシャニで各地からユダヤ人が集まり、会議が開かれます。そこで、ユダヤ人の迫害問題を解決するために、シリア(パレスチナ含む)への集団移民を組織し、そこに農業コミュニティを設立するという計画が生まれます。

パレスチナへの大規模移民は、1882年に、まず、ルーマニアから移住してきたユダヤ人30家族​​がガリラヤ湖北に入植し、続くように東欧などから2.5万人が移り住んだことから始まります。主にレバノンや東方正教会などの不在地主から土地(荒地など)を購入して農地開拓を始めましたが、資金も底をつき、開拓は困難を極めます。マラリアに苦しみ、多くがパレスチナを去ったと言われています。やがて、(当時、世界一の金持ちだったユダヤ系の)ロスチャイルド家が支援するようになり、状況は少しずつ改善していきます。

1896年、ヨーロッパで国民国家の建設をめざすナショナリズムが高揚していたことへの危機感を背景に、オーストリア在住のテオドール・ヘルツルが「ユダヤ人国家」を出版します(ヘルツルは、パレスチナにこだわらず、アルゼンチンやウガンダも候補としていました。)。1897年には、スイスのバーゼルでシオニスト会議が開かれ、「パレスチナにユダヤ人のための国際法によって守られた故郷を作る」ことが目標となります。

1903年、バーゼルでのシオニスト会議の決議文とされる偽文書「シオン賢者の議定書」のロシア語版が出版されます。内容は「ユダヤ人による世界征服」というもので、日本を含めて世界各国で翻訳されます。ヒトラーのユダヤ人観にも影響を与えたと言われています。

このあと、オスマントルコ政府に、パレスチナにユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)建設を打診しますが良い返事が得られず、個々の移住実績を積み重ねていく方針がとられます。

1906年、キリスト教徒であった徳富蘆花は、「ふと、キリストの足蹠を聖地に踏みて見たく」とパレスチナを訪れますが、残されているものは「唯天の青、白き丘のみ(順禮紀行)」と、がっかりしています。

そして、ドイツやオスマントルコら中央同盟国と、イギリスやフランス、ロシアら連合国の間で第一次世界大戦が勃発します。入植ユダヤ人には、出身国との二重国籍だったため、敵国国民として追放されたものもいます。

当初、アメリカ合衆国は中立でしたが、アメリカには、ロシアでの迫害から多くのユダヤ人たちが逃れてきていました。彼らの影響でアメリカの新聞は、ロシア憎しから敵国のドイツに好意的でした。しかし、1917年、イギリスの外務大臣バルフォアが、パレスチナでのユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)建設支援を公式に宣言します(バルフォア宣言)。このことが伝わると、アメリカの新聞の論調は一変します。アメリカは連合国側で参戦し、1919年、戦争は連合国側の勝利となりました。

戦後、統治者がトルコからイギリス(委任統治)に代わります。また、1922年、国際連盟がバルフォア宣言の内容に合意します。

1922年に、植民政策の学者である矢内原忠雄氏は、パレスチナのユダヤ人入植地を視察して、次のように記しています。

パレスチナは乳と蜜の流るる地として記されてあるのに其現状は禿山と石地ばかりの仕方ない土地なのです。モハメット教徒特にトルコ人がパレスチナの主人になりてよりこんなに土地を荒蕪にしてしまひまし た。併し猶太(ユダヤ)人は言って居ます「(略)イスラエル人がイスラエルの地に帰る時、此の荒地より何が出てくるか見て居れ!」と、そして本当に荒地より緑野が出つつあるのです。

「パレスチナ旅行記」『矢内原忠雄全集』26 巻

パレスチナを回る旅行者は、次のことに強い印象を受けるだろう。テントを張った人々の一群が、剥げた、石だらけの土地に種をまき、牢として精力的で、そして生き生きとした陽気な若者がそのような荒野で働いている。彼らはロシアやルーマニア、ポーランド、その他中欧から最近この地に移民してきたユダヤ人入植者である。彼らの少なからぬ部分が高等教育を受けているが、石の粉砕や牛乳絞り、様々な農場設置や道路舗装のために医学や法律のキャリアを投げ出したのである。迫害と抑圧の国々から先祖の地にやってきた彼らは、久しく捨て去られた芝生と石ころの土地と格闘し、それらを乳と蜜の流れる地に変えようとしている。彼らがその威勢のいい 精神や喜び溢れ陽気な雰囲気をもってして困難で粗野な労働を完遂しようとしている姿に、旅行者は感銘を受けるのである。  

トルコに侵略されていた時代、約束の地はその姿をまったく変えてしまっていた。ユダヤ人が次のように述べるのは故なきことではない。二千年間異国の地を我々は漂流し、二千年間我々の土地は無人になった。だがユダヤ民族が戻ってくると、この土地は緑地、そしてあらゆる場所、あらゆる方面にみなぎる生命に満たされることとなる。

「パレスチナの印象」 矢内原忠雄

矢内原氏は、帝国主義の植民地政策に疑問を感じていたことから、入植者の労働に感動したようです。

資本と労働とが人口希薄なる地域に投ぜられ、人類の努力を以て土地の自然的条件を改良し、地球表面に荒野なきに至らしむるのが植民活動の終局理想である。

「シオン運動に就て」矢内原忠雄

この頃のシオニズムは社会主義的な傾向がありました。矢内原氏は、アラブ人の反発はパレスチナの一般農民を搾取する地主階級によるものとする一方で、ユダヤ人入植者による近代的技術や資本の導入はアラブ人農民の生活水準向上につながると観察していました。

矢内原氏の考えは西洋的な合理性ですが、おそらく、アラブ人にとっては、そういう合理性は合わなかったんじゃないでしょうか。

シオン運動が私の興味を惹く一つの点はその非資本家的非営利主義的非搾取的植民事業にあり、資本主義的植民の行きつまらんとする今日、特に注目に値する処である。

「植民政策の新基調」矢内原忠雄

矢内原氏は、シオニズムと比較するように日本の植民地政策を批判したことで、東京大学を追われますが、戦後、東京大学総長となります。

アラブ人

西暦610年頃、メッカ(現在のサウジアラビアにありイスラム教最大の聖地)で、預言者ムハンマドにより始められたイスラム教は、数十年のうちに西アジア一帯に広まります。それに合わせて、アラビア語やアラブ文化も広まり、周辺の民族は同化されていきます。イスラム世界内のグローバリズムですね。それが、アラブ人です。その結果、北はイラク、シリアから、西は北アフリカまで、広い地域がアラブ人の社会となります。

こうして、アラブ人は融合を繰り返し、大きな民族となりました。

濃緑がアラビア語話者が多数派、薄緑が少数派の地域です。ほぼ、アラビア語話者=アラブ人という理解でいいと思います。

第一次世界大戦が始まった頃は、西アジアのアラブ人はオスマントルコの支配下にありました。しかし、オスマントルコと敵対するイギリスは、アラブ人の反乱を画策します。1916年には、ムハンマドの末裔で、メッカの太守であったハーシム家のフサイン・イブン・アリーが、アラブ独立を掲げて、オスマントルコに反旗を翻します。そこからの快進撃は、映画「アラビアのロレンス」に詳しいです。


第一次世界大戦以降

アラブ諸国の独立

戦争中、イギリスはオスマントルコを倒すために、西アジアのアラブ地域について、次のような外交をおこないました。

  1. ハーシム家には、(フランスの権益に害がない限りで)アラブ人だけが住んでいる地(中東の一帯)を対象とするアラブ王国を約束(マクマホン書簡)
  2. ユダヤ人には、「パレスチナに在住する非ユダヤ人の市民権、宗教的権利を害さないこと」を条件にパレスチナでのユダヤ人民族郷土を約束(バルフォア宣言)
  3. フランスとは、中東の分割(サイクス・ピコ協定)

これが、イギリスの3枚舌外交と言われたことがありましたが、よく読めば、相互間にそれほどには矛盾はありません。

イギリスの支援を得たフサイン・イブン・アリーは、1916年、アラビア半島紅海沿岸にヒジャーズ王国を建国し、オスマントルコからの独立を果たします。

ハーシム家のフサイン・イブン・アリーの三男ファイサル1世はシリアのダマスカスまで攻め上がり、1920年、シリア・アラブ王国を建国して、シリア王になりますが、それを認めないフランスとの間で戦争が勃発、ファイサル1世はシリアから逃げ出します。
これに呼応して、ファイサル1世の兄、アブドゥッラー1世(フサイン・イブン・アリーの次男)は、シリアに軍を進めようとしますが、イギリスは、その委任統治領のうち、北をファイサル1世に、南をアブドゥッラー1世に与えることで懐柔します。

この、戦後統治が未確定な混乱期、1920年から21年にかけて、パレスチナのアラブ人がユダヤ人を襲撃する事件が続けて起こります。

結局、1922年にファイサル1世は初代イラク国王に、アブドゥッラー1世は初代トランスヨルダン(現在のヨルダン)国王になります。

一方、ヒジャーズ王国は、同じ頃にアラビア中部にイブン・サウードにより建国されたナジュド・スルタン国に、1926年に征服され併合されます。それが、現在のサウジアラビアとなります。

まるで、三国志のようです。アラブ諸国の国境線は、人為的に引かれたものなのです。

サイクス・ピコ協定では、青系=フランス、赤系=イギリス、パレスチナは共同統治領とされていました。

この地域は、サイクス・ピコ協定で、暫定的に英仏の共同統治となっていましたが、フランスがシリアの一部であることを主張して、手に入れようとします。しかし、イギリスが「ユダヤ郷土」の約束を持ち出し、イギリス単独の委任統治領となりました。

この図は、パリ講和会議(1919年)の際にハーシム家ファイサル1世(ヒジャーズ王国代表/この地を含むシリア王国の国王に予定されていた)とユダヤ人代表ハイム・ワイツマン大統領の間で締結された合意の図に示された境界線(赤色の線。なお、塗りは現代の国土)です。

現代の境界より、ガリラヤ湖やヨルダン川の両岸を含むかたちパレスチナにとってパレスチナにとって水源が重要だったからです。

しかし、ファイサル1世はその後、シリア国王の地位をフランスに奪われたことで協定を無効にする権利があることなどを述べ、署名の無効を主張します。

結局、無効となります。

委任統治の中で、(ハーシム家にフランス領シリアを諦めさせることと引き換えに)ヨルダン川の東側がトランスヨルダン王国となりました。

ユダヤ人側も、トランスヨルダンはバルフォア宣言(ユダヤ人の郷土)の対象外であるという条件を承認します。

1922年、ユダヤ人に民族郷土として国際連盟によって承諾されたのは、ヨルダン川西側のみとなりました。

しかし、このころは、ユダヤ人(世界シオニズム機構)は、公式には「シオニズムの目的はパレスチナへの「民族郷土」設立であり、独立した「ユダヤ人国家」の設立ではない」としていました。


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