昭和20年ごろ、少子化のターニングポイント

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まとめ

  1. 日本の歴史上、子どもの出生の増減には、産業の変化がターニングポイントとなっている。特に、経済急成長の始まりが人口増の始まりになっている。
  2. 日本の歴史上、子どもの出生の増減の要因は「未婚率」と「既婚女性の平均出生児数」である。そのうち、「既婚女性の平均出生児数」減少は「(広義での)家業の衰退」が原因ではないか?
  3. 現代の教育制度は時代に合っておらず、そこから生まれる無駄コストを削減しないと、親の負担感は減らない。
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近年、凄い勢いで人手不足が起こっていて、それが省人化技術の活用を加速させています。省人化が、人手不足の穴埋め、つまり現状維持だけになっているということには釈然しません。

本来、省人化など「生産性向上」は働く人を不要にします。一方、「イノベーション」は、新たな雇用を創出します。そのような「生産性向上」から「イノベーション」へのバランス良い流れが社会を発展させていきます。

今回は少子化問題をとりあげます。

少子化問題を考えていると、「経済が発展すれば、少子化に進むのは必然」というマクロな主張と、「経済的に貧しいので子どもが産み育てられない」というミクロな声との間に挟まれて、混乱します。

少子化の原因についての意見に、こんなのもあります。

「発展途上国は、国の老後保障がないので、老後の面倒を見てもらうために多くの子どもが必要である。そのため、人口爆発が起きている。」という意見です。

違うと思います。

だって、今日の食にも飢えている人が、老後のことまで考えて行動するでしょうか?
また、将来、子どもが、老親を養うに足る経済力を持つと、確信できるでしょうか?

これの裏返しで、
「日本を含めた先進国は、国が社会福祉を充実させすぎているので、老後を子どもに頼る必要がない。それが、少子化の一因である」という意見もあります。

もし、そうなら、年金不安がなかった昭和の頃より、「消えた年金」問題をきっかけに年金制度への不安が高まった現代のほうが出生率が高くなるはずではありませんか?

また、「女性の社会進出が増えると、出生率は下がる」という人もいます。

これは、古い議論で、女性の社会進出が増えるほど出生率が上がる国もあります。その理由は、内閣府男女共同参画局によると、女性の社会進出が当たり前になると男性の家事参加が増えるからだそうです。

出生率が下がった2つのターニングポイント

合計特殊出生率とは、その年次の15 歳から49 歳までの女子の年齢別出生率を合計したものです。女性数の多い年齢もあれば、少ない年齢もありますが、単純合計します。傾向を知るには、それがいいのですが、実数の傾向とは合いません。

例えば、第2次ベビーブームで生まれた女性は、2010年ごろに30代後半から40代になって出産数が大きく減っています。この年代の女性はボリュームが大きいので、出生数への影響は大きいのですが、合計特殊出生率はボリュームの少ない年代と同等に扱います。

そのため、この頃は出生数は減っているのに、合計特殊出生率が増えています。

令和4年の合計特殊出生率(その年次の15 歳から49 歳までの女子の年齢別出生率を合計。)は、過去最低の1.26でした。

昭和41年の「ひのえうま」とは、江戸時代の八百屋お七に因んでおり、この年に生まれた女性は気性が激しいといった迷信から出産が控えられたものです。

迷信によって25%も出生率が下がったなんて驚きですが、この年に生まれた女性には、小泉今日子、斉藤由貴、早見優、三田寛子、鈴木保奈美、江角マキ子らがいます。

この統計は、戦後、始まったもの(たぶん)ですが、合計特殊出生率が下がった2つのターニングポイントがあります。

1つ目は、昭和20年ごろです。昭和22年の4.54から昭和31年の2.22まで急降下しています。これが今回の投稿の本題なので、あとで詳しく書きます。

2つ目は、昭和50年少し前です。

昭和30年代、40年代は、2.0を上回るところで合計特殊出生率は下げ止っており、横ばいとなっていました(出生数や普通出生率は上がっています)。少子化の流れは止まっていたのです。

しかし、昭和49年、合計特殊出生率が人口置換水準(人口が長期的に増えも減りもせずに一定となる出生の水準)を下回ります。そこから30年間、下がり続けます。平成17年には、令和4年と、ほほぼ同じの1.26となり、いったん下げ止まります。

その理由ははっきりしていて、20代の女性未婚率の上昇です。未婚率は、(昭和30年)20.6%、(40年)19.9%、(50年)20.9%と横ばいでしたが、(55年)24.0%、(60年)30.6%、(平成2年)40.4%と、平成17年の59.1%まで上がり続け、そこで、上昇は緩やかになります。

上の表は、女性(母)自身の出生年ごとの(5年ごと)年代別の累計出生率です。昭和25年生まれ(昭和50年には25歳)ぐらいから20代での出産が減り始まるのです。

別の形で見たのが次表です。

減り続けているのは20代だけで、30代、40代での出生率は、むしろ増え続けています。

昭和50年ごろに起因する日本の少子化に影響を与えているのは、ほぼ未婚率(晩婚化含む)だけであって、いったん夫婦になったあとは、産む子供の数に大きな変化が見られません。むしろ、晩婚の遅れを取り戻そうとするかのように、高年齢での出生率は増えています。

次の表は、既婚女性の年代別にみた(生涯に産んだ)出生児数の変化です。

戦前は、6割以上の既婚女性が4人以上の子供を産み、生涯平均出生児数は約5人でした。

しかし、戦後は急激に生涯出生児数が下がり、昭和30年代には平均出生児数が2人台となります。

一夫婦あたりの子供が、平均5人以上から、平均2人台へ。少子化を考えるうえで、昭和20年ごろの大きな変化は見逃せないので、今回はそれをテーマとします

昭和20年代の出生率低下

合計特殊出生率の統計は戦後のものしか存在しない(たぶん)ので、戦前からの推移を見るために普通出生率(人口千人あたり)を見ていきます。

出生数は、1947年(昭和22年)から1948年の第1次ベビーブームに向けて、激しく増え続けています。第1次ベビーブームは、兵士が戦争から復員してきたことで起こったと言われ、この時期に生まれた子供たちは「団塊の世代」と呼ばれます。

ただ、人口は「複利」で加速度的に増えるので、惑わされやすいのですが、出生率自体は(戦争が激しくなると下がっていますが、それを除くと)明治時代から平均3%を超えて高い水準だったのです。合計特殊出生率つまり、出産適齢期女子に限定すれば、明治の終わりから昭和の初めまでは、第1次ベビーブーム時よりも、もっと高かったものと推定されます。

むしろ、注目すべきは、昭和20年代の、異常な急降下です。

1949年(昭和24年)に33.0%だった出生率は、たった1年後の1950年(昭和25年)に28.1%と急減します。その原因ですが、

まず、初婚年齢については、昭和時代に入ってからじわじわと上昇していたものの、戦後は大正時代の水準にまで下がった後、じわじわと上昇しています。急激な変化はみられません。

また、戦争未亡人は、少なくとも50~60万人と推定され、そのうち7割が35歳以下だそうです。これが(この年代の)非婚率を5%ぐらいまで下げた可能性はあります(ただ、再婚した女性も多い)。

「もう、戦争で死ぬことはない」という安心感が出てきたことも影響しているかもしれませんが、これが、どちらの方向に影響したのかは、判断が難しいです。

さらに、医療の進歩により、多産多死から多産少死になったことで、少産少死に向かったという面もあると思います。出生児あたりの乳児死亡率は、1910年に16.1%、1920年には16.5%でした。そのあたりから急激に下がり、1947年には7.4%まで下がります。子供や成人の死亡率も同様に下がっています。ただ、出産率低下のスピードの早さには見合いません。

「戦中の『埋めよ増えよ』政策がなくなったからだ」説については、スローガンは威勢はよかったけど、「令和の異次元少子化対策」ほどに具体的な政策の後押しがあったわけでもないので、却下です。

ただ、「人口膨張は領土拡張主義に繋がる」と危惧するGHQの強い後押しで政府の抵抗を押し切って、優生保護法が制定(昭和 23(1948)年)され、人工妊娠中絶が合法化されたことは大きいです。

年間100万件超えを見ると、間違いなく影響は大きかったと考えます。

いろんな要因が複雑に組み合わさっていると思いますので、「これだ」と断定的に主張することは難しいですが、以下、筆者の関心のある視点で書いていきます。

歴史上の人口爆発

日本の歴史上、近世以降、人口の爆発期が2度あります。

江戸時代の初めの100年間と、明治から昭和にかけての100年間です。

江戸幕府が成立した1603年には、日本の人口は1,200万人でした。それから、約100年後の享保の改革 (1716年-45年)時には3,100 万人と、2倍半に増えています。

それから、しばらく停滞期があり、明治維新 (1868年)時には3,300 万人でしたが、昭和42年(1967年)には1億人を超えました。100年間で3倍です。

江戸時代初期の人口爆発

江戸時代初期の人口爆発は、戦乱の世が終わり、農業生産性が飛躍的に向上したことが背景にあります。そのことで、農村の家族形態が大きく変化しました。それまでの家族は、名主的な有力農民の下に、下人等の隷属農民、名子や被官など半隷属的小農、傍系親族等が集まる大規模な合同家族でした。しかし、新田開発などもあり、隷属農民、傍系親族等は徐々に独立して、新たな世帯をつくるようになります。今までは結婚できなかった隷属的農民が結婚して世帯を構えるようになり、農村では、ほぼ「皆婚」となります。

江戸時代の農村は、明治以降と比べると出生率は低めで、4人家族が平均的だったようです。

一方、江戸などの都会では、男性比率が高かったこともあり、男性の有配偶率は、50%前後と低いものでした。ただ、現代と違って、日本人の大半は農村に住んでおり、全体に影響を与えるほどではありませんでした。

そして、元禄バブルを経て、経済は低成長期に入り、人口も停滞(時に減少)するようになります。

江戸初期の人口爆発期の原因を簡単に書くと、農村での「経済成長」と、それによる「既婚率の高まり」です。

明治時代から敗戦までの人口爆発

明治時代になり、文明開化とともに、人口も急増期に入ります。

その理由の一つが、離婚率の急激な低下にみられるように「家族観」が変わり、家庭が落ち着いたことにあると思います。

その原因を、1998年の民法制定による「家制度」制定とする考えかたもあります。でも、それ以前から、その傾向は現れていたので、それは違うと思います。

江戸時代は、死別再婚も多く、夫婦はけっこう流動的でした。「夫婦は一生寄り添うもの」という「家族観」は、明治になって一般化したようです。

普通出生率(人口1000人あたり)は、江戸時代から明治中頃までは20%台でしたが、明治後半から昭和20年代前半までの約50年間、(戦争などで下がる時期はありましたが)30%を超えています。

これをさらに都道府県別に見てみると、青森県、秋田県や山形県など東北農村部では、大正時代には40%超えが続いています。貧しい農業県ほど、出生率が高かったのです。

ここで、筆者は、平均視聴率52.6%というテレビドラマ史上の最高視聴率記録を立てたNHK連続テレビ小説「おしん」を思い出しました。
明治40年(1907年)頃の山形県の山村は、近世日本でも極貧地域でしたが、7歳のおしんは、母が堕胎のため冷たい川に入っていくのを見て奉公に出ることを決心します。このように、この極貧地域では、口減らしのため、人知れず、失われていく幼い生命も多かったのでしょう。
ところが、それを超えて、なお、これらの最貧地域が、近世日本でもっとも出生率が高かったのです。

農村の貧しさと出生率は、正比例しているかのようです。

「おしん」を観ていたら、その理由がわかります。
おしんが奉公に出ることで、一家は結構な収入を得ます。家に残った子どもも同じです。育児コストがかかるのは出生後の数年だけで、この頃の農業は子供でもできる多くの軽作業が生じたため、子どもは貴重な労働力だったのです。
一方、子供達が成人し、跡取りが決まると、それ以外の子どもは不要になります。子どもの死亡率が下がっていくと、成人となる農家の跡取り以外の息子(次男坊、三男坊ら)が余ってきます。彼らは、こうして都会に出てきたのです。

江戸時代でも、農民が都会に出てくることはありました。しかし、制度上は「士農工商」という身分制度の壁があり、農民は農地に縛り付けられていました。しかし、明治になって、農民が都会に出てくる制約となる身分の壁が取り払われたのです。
また、文明開化以降の商工業の発展が、都会での労働力を必要としました。

日本の農業従事人口は農地の制約から、江戸時代から昭和50年頃まで、1400万人(農家人口3000万人)前後の一定水準で推移します。身分制度があった江戸時代には、日本人の大部分が農民であったため、日本の人口は、3000万人を大きく上回ることができませんでした。また、都会にも多くの人口を受け入れるだけの仕事がありませんでした。しかし、明治になり、文明開化で新しい産業が次々と生まれ、かつ、身分の制約が取り払われることで、余剰人口が農村から都会に出てくることで人口が増え始めたのです。

明治時代から昭和の高度成長期まで、農村が人口を生産し、3000万人を超える過剰分を(様々な産業が興りつつあった)都会が受け入れて人口を増やしていったのです。

明治以降の人口爆発期の原因を簡単に書くと、都会での「経済成長」と「身分制度撤廃による農村から都会への人口移動」です。

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