筆者は、児童福祉司としての職歴があります。
大学時代は、福祉をライフワークにしようと思っていました。しかし、福祉の仕事をしていく中で、「このままでは、正義感を振りかざすだけの偏屈な人間になる(筆者の場合です)」と実感し、
「デザインの道に進もう」と、仕事をしながら、夜に専門学校に行くなどしました。それも、能力無さすぎ、待遇も良くない、と知って断念。何をしてもうまくいかない20代。
それはともかく、児童福祉司として、多くの児童虐待事例に向き合いました。そのなかで思ったことを書きます。
あるある事例
典型的な、あるある事例から。
あるとき、ある地域の民生児童委員から「子供を虐待している家庭があります。調査に来てください」と連絡が入りました。委員から話を聞き、両親と接触、数ヶ月後、すったもんだの末に、虐待児童を養護施設に入所させる方向で、(両親は内心、不同意でしたが、渋々納得させました)皆をまとめることに成功しました。ここまで至る成功例は、少ないです。内心、鼻高々。
そして、養護施設入所当日。晩御飯の用意から始まる、数々の準備を関係者にお願いし、自動車で、子供を迎えに家庭を訪れました。民生児童委員も一緒です。
ところが、子供は、「嫌だーー!」と大声で叫び、泣きながら、家の外に駆け出して走り回るのです。近所の人たちも「何事だ」と飛び出してきました。人だかりができました。
そう、私たち大人は
子供の生命を危険に晒すなら、親から引き離す方がいい。
と、考えますが、子供にとっては、
親から引き離されるぐらいなら、死んだ方がいい。
なのです。
親から虐待されている子供ほど、親の愛情に飢えて、親の愛情を求めているのです。その気持ちの強さは、親の愛情を感じながら育っている子供とは、比べものにはなりません。
そして、両親は、「一緒に暮らさせてください」と懇願し始め(大勢が見ている前で演技するな!)、
近所の人たちも、「親と子を引き離そうとは、なんというやつだ」という目で、筆者を見始めました(おいおい、悪者は向こうだぞ!)。
「親、子供、近所の人」対「筆者(児童福祉司)、民生児童委員」の構図。
まるで、人さらいみたいに思われてる。筆者は、隣にいる民生児童委員に、何か一言言ってくれないかなあと期待しましたが。民生児童委員の口から出てきた言葉は
「子供を、このまま親御さんのもとで過ごさせていただけませんか。」なんという裏切り。
民生児童委員は、地域の声の代表という役割のほうを選んだのです。筆者は一人、悪役となり、こうなったら、手ぶらで帰るしかありません。晩御飯の用意を始め、いろんな手続き類の準備をしてくれていた人たちから、「準備不十分だから、こうなるのだ」非難轟々となることが予想されます。
あるある事例でした。
子供によって、千差万別であり、これは一例に過ぎません。全く違うケースもあると思います。子供の成長につれて変化もします。また、子供は本心とは逆のことを言うことも多く、子供の本当の気持ちを知ることは非常に難しいです。というか、子供の気持ちは、くるくる変わるのです。
ただ、一つ言えることは、親を悪者にして対応しようとすると、ほぼ失敗します。これは、絶対的に言えるから繰り返します。親を悪者にして対応しようとすると、ほぼ失敗します。
客観的に見れば、どんな冷酷でひどい親であろうと、こどもにとって世界でただ一人のお父さん、お母さんなのです。この冷酷な親が世界中を敵に回しても、こどもだけは親の味方です。だったら、こどもを助けたいと思ったら、親の味方にならないと仕方ないじゃないですか。児童虐待は、水戸黄門みたいに解決できないのです(世の中はそれを求めますが)。
ということで、紹介させていただきました。
事例によって様々で、全く違うこともありますが
正義感を振りかざすと、ろくなことにはならない。
ということです。正義感は必要です。ただ、それは内心にとどめておきましょう。正義感は、自分にとってのエネルギーです。他人に押し付けるものではありません。これまでの社会人生活で、正義感を振り回して、何か問題が解決したことはありません。
あるある研修
話変わって、年に数回は、全県や全国の児童福祉司や福祉関係者の研修に参加していました。
大学教授やらの講義と、グループトークの2本立てというのが標準パターンですが、大学教授の話は、統計とか事例とかの解説が中心で、役に立ったことが、まずありませんでした。そもそも現実を知らないことが多い。
一方、グループトークは、盛り上がることが多かったです。
あとで出てきますが、
他では、電話も統計カウントしていることを知り、「うちも、そうしようっと」となったりします。
グループトークには、講師の大学教授も輪に加わって、熱心にヒアリングしていました。というか、現場を知らない教授が、現場の状況を知るための時間でした。
どちらが先生で、どちらが生徒なんだよ
でも、そういう教授が、テレビに出て「児童虐待かく対応すべし」みたいな話をしているのを聞くと、「さすが、頭がいいだけあって、本質を抽出する能力すごい」と感嘆しました。でも、最後は、正義感を振りかざして終わるのです。コレジャナイ感が、半端なかったです。
思うに、テレビが求めるものは「正義感の振り回し」なのです。だから、そういうコメントが求められる圧力が高いのです。
さらに、そういうマスメディア論調を真に受けて、TwitterほかSNSで正義感振り回すインフルエンサーが、現場の人たちを糾弾したりしている。
SNSは、現場が生の声を発する貴重なツールだから、インフルエンサーは、マスメディアではなく、現場の声を拡散してください。
統計は、信用できるかどうかを、まず確認せよ
最後に、統計について書きます。
下記表は、厚生労働省の「児童虐待」統計です。
平成2年から比べると令和元年には180倍になっています。すごい、と思いますよね。児童虐待(この統計の定義)は次のように定義されています。
ただ、この定義は、今の定義なのです。この表の左の方(平成の初め頃)は、こうではありませんでした。統一的基準がなく都道府県どころか、各児童相談所によって様々でした。この表の、更に左、平成元年以前は、児童虐待に対する関心すら、ほとんどありませんでした。「児童虐待など地域の恥だから、統計にカウントするな」と項目「養育の不適切」としてカウントされていたりしたそうです。
さらに、当初は、対面相談のみカウントされていました。少しずつ、電話相談がカウントされるようになっていきました(電話相談は対面相談の少なくとも数倍)。
また、当初の虐待の定義は「身体的虐待」「性的虐待」のみでした(基準はあったらしいのですが、現場はあまり知りませんでした)。
「心理的虐待」って、重要性はわかりますが、統計にあげる上では、主観的に過ぎませんか。相談が上がってきたときは、ことの真偽はわからない(調査を進めてわかる)のです。生徒が教師の関心を引くために作り話をすることもあります。
はっきり言うと、その頃は「児童虐待」より「非行」のほうが重大だったので、関心が低かったそうです。「児童虐待」が社会問題化し、「児童虐待」を取り上げると予算が増える、となってから、「件数が増えた方が都合がいい」方向に変わりました。
具体的に書くと、児童福祉司が学校に出かけたときに、「こんなケースもあるんです。あんなケースもあるんです。」と次々に話が出てきたりします。それを、あるものは、その場限りで聞き流したり(心には留めますが)、深追いしたりします。件数に上げてしまうと「あれは、どうなってる?」と上司に追求されますので、件数に上がったり上がらなかったりは、かなり主観的なんです。最近は事なかれ主義で、ちょっと疑いがあるだけで件数に上がります。
そういうわけで、虐待件数が増え続けていることは間違いないと思いますが、180倍とかではありません。おそらく、桁が違うでしょう。まったく、信用できない、信用してはいけないデータです。
一方、「死亡事件」のデータがあります。定義の一貫性に、多少の不安はありますが、死亡は、紛れもない事実です。ほぼ、信用してもいい、信用すべきデータです。これによると(心中以外で)平成15年は25人、平成28年は52人となっています。表には作られていませんが、平成30年度(最新)は54人です。対応件数もこれぐらいの増加率が実際のところではないでしょうか。
とても、いたわしいことで、ここまできて、気持ちがぐっと込み上げてきました。
こんな悲しいことが起きない、いい国を作りましょう!
筆者は、加工された二次データは、出典元が書かれていれば必ず一次データを当たります。出典元が書かれていないものは、全く信じません。データそのものは正しくとも、製作者の意図する方向へ誘導するために切り取られ取捨選択されたものです。誘導用の二次データだけだと単眼になりますが、一時データを探していると、その過程でいろいろなデータを目にして、「このデータからはこうだけど、このデータではこうだ」と複眼的に事象を見ることができます。ただ、一次データであっても、上の表のように信頼性が低いものもあるということです。
まとめ
当時のことを思い出してくると「あの子はどうなっているだろう」とか、感傷的になってきてしまいました。実際に困っている子供を前にすると「正義なんてどうでもいい」という気持ちになります。
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