イギリス委任統治領
イギリスによる統治が正式に始まってから、1928年頃まで、パレスチナは、比較的、平穏が続いていました。
この頃、ユダヤ人の多くは、移住先としてアメリカを希望していました。1890年から1914年の間に、約169万人のユダヤ人がアメリカに移住しましたが、パレスチナに移住したのは数万人でした。しかし、アメリカが1924年にジョンソン=リード法(日本では排日移民法と呼ばれる)を制定し、東欧・南欧・アジア出身者の移民を押さえる目的で個々の上限を決めたため、ユダヤ人のアメリカ移住がほぼ不可能になり、パレスチナに目が向けられたのです。
1922年の国勢調査では、全人口752千人のうちユダヤ人は83千人(11%)でした。
ユダヤ移民の農業は、ヨーロッパの銀行家の支援を受けて、アラブ人の小作も雇って農地を開拓していました。アラブ人地主の元で「農奴」のように扱われていたアラブ人小作が、次々と、待遇の良いユダヤ人雇い主の農場に移ったりしたことで、アラブ人地主たちは反感を募らせます。
一方で、多くのアラブ人小作は農奴として扱われることに慣れており、自ら積極的に働くということがなく、勤勉を好むユダヤ人地主とソリが合いませんでした。
それでも、ヨーロッパでのユダヤ人は土地所有を禁じられて農業ノウハウがなかった人が多かったこともあり、最初のうちはアラブ人の農業技術を必要としました。しかし、農業ノウハウを覚え、勤勉なユダヤ移民が次々とやってきて、アラブ人の労働力は不要となっていきます。
また、20世紀に入ると、キブツと言われる集産主義的で共同社会的な形態(労働シオニズム)も増えていきます。キブツでは小作人を雇うことがないので、アラブ人は雇用されることがありませんでした。
第一次世界大戦後、統治者がオスマントルコからイギリスに代わったことで、パレスチナの社会制度は、急速に西洋化していき、アラブ人は戸惑います。オスマントルコ経済圏を離れてイギリスの経済圏に入って安い外国産農作物が輸入されるようになり、従来の農作物は苦戦するようになります。一方、食物需要の変化に素早く対応して成功する者もでてきます。
地域は活発化していきますが、物価も高騰し、経済成長の恩恵を受ける者と、そうでない者の格差が拡大していきます。
農業を辞めて都会で貧民化するアラブ人が目立つようになり、ユダヤ人に対する不満が生まれてきます。
1930年代に入ると、ナチスドイツのユダヤ人迫害が始まります。統治者のイギリスの移民制限政策は、資産力のあるユダヤ人の入植は認める一方で、資産力がないユダヤ人は労働需要に応じて限定的に許可するというものでした。そのため、資産力のあるユダヤ移民が増えてきます。世界大恐慌のため経済が低迷する一方で、ユダヤ人の産業への投資は活発で、農作物でも加工工場等を次々と造り、高付加価値化していきます。
また、イラクの油田からのパイプラインが引かれて地中海沿いのハイファの製油所で精製され地中海からヨーロッパに輸出されるようになりました。電力や近代港も整備、運営されました。死海周辺では鉱物資源が開発され、化学工場や肥料工場などが造られました。こうした重工業化は、ほぼユダヤ系企業によるものでした。
アラブ人とユダヤ人の経済格差が開き、アラブ人のユダヤ人に対する襲撃事件が増えていきます。
1931年の国勢調査では、全人口1,036千人のうちユダヤ人は175千人(17%)でした。しかし、人口はともかく、ユダヤ人の経済の勢いは凄まじいものでした。
この時代のパレスチナを代表する人物が、アミーン・フサイニーです。
フサイニーは、1920年頃からユダヤ人を対象としたテロを始めます。また、ユダヤ人との融和を目指すパレスチナ人の指導者を次々と暗殺し、パレスチナ人を反ユダヤでまとめます。
1928年、エルサレムの嘆きの壁に、ユダヤ人が男女の境のために衝立(ついたて)を置きます。これは、慣習違反でしたが、これを受けて、フサイニーは世界のアラブ諸国中に「ユダヤ人がモスクを占拠しようとしている」というビラを配布し扇動します。これをきっかけに、1929年、アラブ人によるユダヤ人への襲撃が各地で起こり、数百人の死傷者が出ます。
1920年代のパレスチナは比較的平穏でしたが、この事件をきっかけに、本格的なアラブ人とユダヤ人の対立が過熱していきます。
1936年に、アミーン・フサイニーの指導で、パレスチナ・アラブ反乱(アラブ側はパレスチナ独立戦争)が起きます。イギリスの弾圧を受け、その後、フサイニーはナチスドイツに亡命して、ベルリンからパレスチナに向けての反ユダヤ主義宣伝放送をしたり、ナチス占領下のバルカンでユダヤ人狩りをします。
第1次中東戦争のあとは、ガザに(エジプトの傀儡である)パレスチナ政府を設立して大統領となりますが、(エジプトの方針が変わったことで)まもなく崩壊します。
この頃には、過激派アラブ人の攻撃は、穏健派アラブ人にも向けられたために、パレスチナから逃げ出すアラブ人も増え、アラブ人人口が減っています。
1937年に、パレスチナ・アラブ反乱を受けて、イギリスは、自らの委任統治領を大きく縮小し、残りを2つの国家に分割する「ピール分割案」を出します。
「ピール分割案」で初めて、公に、具体的な領域を示したユダヤ人国家創設という案が登場します。皮肉にも、「ユダヤ人国家」というアイデアは、アラブ側がユダヤ人との共存を拒否したことで生まれました。しかし、ユダヤ側は、この案を承諾しましたが、アラブ側が拒否します。分割案は撤回されます。
1939年になると、ナチスドイツとの戦争が不可避となったイギリスはアラブを敵に回さないために方向転換し、パレスチナ1国家とし、ユダヤ移民やユダヤ人への土地売買を大きく制限する第2マクドナルド白書を発表します(ユダヤがナチスドイツの側につく可能性はないため)。
このことは、ナチスドイツの迫害により移民先の確保が急務であったユダヤ人の信頼を大きく損ねます。
ピール分割案。青はユダヤ人国家、緑はアラブ人国家、エルサレムから海岸部を繋ぐ赤はイギリス委任統治領に留まる地域
この時期のユダヤ人指導者に、(後に初代イスラエル国大頭領となる)ベン=グリオンがいます。
ベン=グリオンは、1920年、アラブの襲撃に対しての自衛組織としてハガナーを設立します。
ユダヤには、対アラブ強硬派の軍事組織もありましたが、ハガナーは、報復も許さず専守防衛に徹するというものでした。1936年から1939年にかけてのパレスチナ・アラブ反乱の際にも、アラブ人のユダヤ市民に対する攻撃への報復は控えて、自衛に専念するよう呼びかけました。
このハガナーが第一次中東戦争の途中でイスラエル国防軍の中心になります。
また、ベン=グリオンは、第二次世界大戦に際しては、パレスチナのユダヤ人に、イギリス陸軍に志願することを奨励します。パレスチナのユダヤ人人口(女性含む)の約10%がイギリス陸軍に志願しナチスドイツと戦いました。一方、イギリスの監視をくぐり、ヨーロッパからの多くの不法移民を援助します。
一方、1931年にハガナーから脱退した対アラブ強硬派により武装組織イルグンが結成されます。この流れを汲むのが、現在のイスラエル与党のリクードです。
1945年の国勢調査では、全人口1,764千人のうちユダヤ人は553千人(31%)でした。
第二次世界大戦以降
イスラエル建国とパレスチナ難民の発生
第二次大戦が終わると、ユダヤの強硬派(イルグンなど)は、イギリスに対する武力抵抗を開始します。
米国は、ホロコーストを生き残ったユダヤ人難民の惨状を解決すべく、パレスチナへの移住を後押しします。しかし、アラブ人の反発を恐れたイギリスは第2マクドナルド白書を盾に拒否します。こうして、英米調査委員会がつくられます。
1946年の英米調査委員会は次のように報告しています。
パレスチナのユダヤ人はアラブ人の暴力が報われたと確信している。アラブの蜂起の間、祖国のユダヤ人はあらゆる挑発にもかかわらず、指導者の命令に従い、驚くべき自己規律を発揮した。彼らは発砲したが、それは正当防衛のためであった。彼らがアラブ人に報復することはめったになかった。彼らは、自制をしたことが、1939年の会議と白書でアラブ人を有利にしたと苦々しく述べている。(略)
アラブのテロリズムの成功の直接の結果は、ユダヤ人のテロリズムの始まりであり、(略)
正義を達成するには忍耐ではなく暴力が必要であるという危険な信念が広まりまった。自制と英国の約束への依存を促したユダヤ穏健派の立場は徐々に損なわれてきた。ユダヤ過激派の立場は、アラブのコピーブックから借用することを熱望し、徐々に強化された。
英米調査委員会1946
英米調査委員会は、アラブでもないユダヤでもない統一国家設立と、両者の憎悪が治まるまでは国連の信託統治下におくことを提言しますが、その後の調整は難航し、そのまま棚上げされます。
この後、解決は国連に委ねられます。
そして、1947年に国連は、パレスチナを分割してユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する方針を決議しますが、決議に反発したアラブ人が採択の翌日から襲撃・焼き討ちを始めます。イギリスは治安を放棄し傍観したため、ユダヤ人も応戦を余儀なくされて、襲撃の応酬となります。
さらに、アラブ側がエルサレムを封鎖し、ユダヤ人への物資搬入の輸送車を襲撃する態勢を整えたことで、本格的に内戦が始まります。当初は、ユダヤ側はどうにか持ち堪えてイギリスの委託満了日を迎えれば、内戦が終わり建国できると考えていたため、戦闘の拡大は抑えようとしていました。
そして、1948年、イギリス軍がパレスチナから撤退した委託終了日に、イスラエルは国連の分割案に従い建国しました。
第3次中東戦争の結果の占領地(キャメル色)
イスラエル建国の当日、国連決議を認めないレバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトの5カ国の軍隊150千人(最終的に660千人)が、イスラエル領内に侵入し攻撃をはじめました。
この時点(不法移民もいたため、国連報告書による推定)で、
イスラエル国内には、ユダヤ人498千人、アラブ人407千人。
エルサレムなど国連信託領に、ユダヤ人100千人、アラブ人105千人。
それらを除くアラブ部分では、ユダヤ人10千人、アラブ人725千人。
こうして、第一次中東戦争が起こりますが、
それを迎え撃つイスラエル側は、(イギリス統治下で武装を禁じられており)小銃で武装する程度の民兵のみ30千人(最終的に140千人)のみでした。
こうしたなかで、パレスチナ難民が生まれた当初の経緯は次のとおりと主張されています。
アラブ諸国の総合力が勝つと考えたアラブ放送局は、地元のアラブ人に向けて、戦闘が起こる地域から逃げろというメッセージを放送した。「勝利したアラブ軍とともに帰還し、自分たちの財産だけでなく、殺されたり追放されたユダヤ人の財産も得ることができる」と。多くのアラブ人はそのアドバイスに従い、すぐに戻ってくることを期待して去った。
「ナクバ」とその成長
イスラエルの歴史家ベニー・モリスの分析です。
自発的に逃げたのか、追放されたのかは、大して重要ではないと思います。
このとき、イギリス統治パレスチナのアラブ系住民は120万人以上で、ユダヤ系住民50万人弱の、2倍以上でした。さらに、アラブ諸国の重武装の軍隊66万人(最終的に)が入ってきました。
アラブ側は、万が一にも負けるとは思わずに、他力本願で、すぐに戻ってこられるだろうと周辺のアラブ諸国へ逃れて、負けて、そのまま難民となりました。
一方、ホロコースト生存者も含まれるイスラエル側は、逃げるところもなく、踏みとどまって死ぬまで闘うしか選択肢はありませんでした。
アラブ側は、ユダヤ系住民をも上回る人数で重装備の軍隊を投入しており、誰の目にも、アラブ側が圧勝するものと考えられていました。
民兵のみのイスラエルに欧米の対応も冷たく、武器調達さえ容易でなく、当初は苦戦しますが、停戦中に国防軍を創り、翌年、イスラエルは奇跡的に勝利します。
第一次中東戦争の戦後の1948年には、約70万人のパレスチナのアラブ人が難民となります。一方、代々、アラブ社会で共存していたユダヤ人も迫害を受けるようになり、約1千人が殺され、約40万人がパレスチナへ移住してきます(その後、アラブ諸国で反ユダヤ政策が次々と制度化し、その後の20年間で、さらに40万人のユダヤ人がアラブ諸国を追われます)。
この結果、ガザにはエジプトが軍を駐留し、ヨルダン西岸地区はヨルダンに編入されます。
イスラエル建国以降
建国後、イスラエル国内には、ユダヤ人716千人、アラブ人156千人。
第一次中東戦争の敗北の影響は大きく、1952年エジプトでは、軍部クーデターにより王政が打倒され、社会主義政策を導入し親ソ連を明確にします。そして、同じようにソ連寄りのシリアと合併し、1958年、アラブ連合共和国を作ります(3年で分裂)。
シリアは、イラクやヨルダンの王制打倒を図る反政府勢力の拠点となり、脅威を感じたイラクとヨルダンは、1958年2月に合併しアラブ連邦となります。しかし、7月にイラクで軍事クーデターが起き、国王一家は殺され、アラブ連邦は瓦解します。ヨルダンの王政も危機を迎えます。
アラブ連合共和国(エジプト及びシリア)は、クーデター後のイラクを支援し、シリア・ヨルダン間の国境は封鎖されます。このとき、イスラエルが貿易ルートを用意してヨルダンを救います。
代々のヨルダン国王は、もともと、イスラエル建国を認めており、中東戦争に参加はしていましたが、実際の戦闘は不熱心でした。(初代国王アブドゥッラー1世は、1951年にパレスチナの指導者アミーン・フサイニーが送り込んだ過激派に暗殺されます)
表面的には、「アラブ全体vsイスラエル」でしたが、実際には、アラブ諸国の中で、王国や首長国の親米アラブ国(サウジ、ヨルダン、湾岸首長国、等)と、社会主義的な親ソ連アラブ国(エジプト、シリア、イラク等)との間での冷戦があったのです。
1964年には、親ソ連アラブ国は親米国ヨルダンを揺さぶるために、アラブ首脳会議で、PLO(パレスチナ解放機構)を創って、本部をヨルダンに置くことを決めてしまいます。PLOは、ヨルダン国内で「国の中の国」のように振る舞い、1970年にシリアの後押しで内戦を起こしますが、破れて、レバノンに拠点を移します。(そのPLOがやってきたレバノンは、1975年に内戦勃発。シリア、イスラエル、欧米多国籍軍が代わる代わる加わり、1990年に一旦終結しますが、その後も現在に至るまで、レバノンはぐだぐだが続いています。)
1967年の第三次中東戦争で、イスラエルは圧勝。エジプトからシナイ半島、ガザ地区を、ヨルダンからヨルダン川西岸を、シリアからゴラン高原を奪います。
この頃には、ヨルダンは体制転覆を謀る反政府勢力に、うんざりしており、ヨルダン川西岸は「お荷物」になっていました。
1972年、PLOは、ミュンヘン・オリンピック開催中の選手村を襲撃してイスラエル選手9名を人質にし、殺害する事件を起こします。全世界にテレビ生中継され、中東の一組織にすぎなかったPLOが世界デビューに成功します。これ以降のPLOは世界への「被害者」PRの宣伝戦に力を入れるようになります。
1973年に第四次中東戦争が起こりますが、イスラエルの勝利に終わり、これ以降、国家としてイスラエルに戦争を挑むことはなくなります。
そして、(政治面でも軍事面でも反イスラエルの主力であった)エジプトが社会主義政策を改めて親米路線に転換し、1979年には単独でイスラエルと平和条約を結び、シナイ半島が返還されます。
「アラブの大義」を掲げた「反イスラエルの流れ」が萎んでいったのが束の間、1978年にイランでイスラム革命が起こります。それまでのイランは、非アラブの親イスラエル国でしたが、これ以降のイランは、「イスラム革命」を掲げた反イスラエルの急先鋒となります。
パレスチナ解放機構(PLO)は、1993年に、イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互承認するというオスロ合意を結びます。この合意に対して、ハマスは反対し、テロ活動を本格化します。
この頃までの「反イスラエル」は表向きは「アラブvsイスラエル」でした。
実際には、(旧・共産主義国からの支援を受けた)社会主義的なアラブが、反イスラエルに熱心でした。
しかし、この頃からの「反イスラエル」は、欧米の価値観へ対抗するイスラム革命の最前線になります。
ずっと、その背景にあるのは「伝統的なアラブの格差社会」と「社会主義的平等→イスラムの神の前の平等」という対立です(平等と言いつつ、超格差なのは、共産主義もイスラム革命も同じです)。
オスロ合意を受けて、ヨルダンはヨルダン川西岸地区の領有権(第一次中東戦争でヨルダンが併合したが、第三次中東戦争の結果、イスラエルの占領下にあった)を正式に放棄、1994年には、イスラエル・ヨルダン平和条約が結ばれ、また、パレスチナ自治政府が設立されます。
1993年のオスロ合意は
- イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。
- イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による暫定自治を認める。その5年の間に国境の確定などを協議する。
となっていました。
2000年、クリントン大統領がキャンプデービットに(イスラエル)バラク首相と(PLO)アラファト議長を招いて「クリントン・パラメーター」(ヨルダン川西岸地区の97%とガザ地区全域をパレスチナ国家として認める)が合意直前にまで行きましたが、アラファト議長は首を縦に振りませんでした。
パレスチナ問題解決の近年最大のチャンスを逃してしまいました。
2002年には、アラブ連盟は、アラブ諸国がイスラエル国家を承認する代わりに、第3次中東戦争時の占領地にパレスチナ国家をつくるという「アラブ和平イニシアティブ」を採択しました。現在も、アラブ諸国は、建前上は、この提案を尊重していますが、その後、アラブ首長国連邦、バーレーン、スーダン、モロッコと次々と個別にイスラエル国家を承認し、イスラエルとの経済関係を強化し始めており、イスラエルがこういう提案に乗るメリットがなくなっています。
イスラエルには、もはや、譲歩することで得られるものがありません。仮に譲歩したところで、ハマスの目的は「パレスチナ国家」ではなく「イスラム革命」なのですから、イスラエルがテロの脅威等から逃れることはできません。
ハマスの行動(意に沿わぬイスラム教指導者を投獄したり、モスクに軍需工場にしたり)を見ると、「イスラム革命」という大義すら、疑わしいです。
穏健派のアラブ世俗国家からしても、(アラブ世俗国家を打倒しようとする)イスラム革命指向のハマスなどを本音で支援するはずもありません(状況の変化に国民意識がついていかないので、慎重に進めると思いますが)。
パレスチナ問題が解決しない原因は色々ありますが、その中で一つだけ選ぶとすれば、「パレスチナ人には、歴代、ろくな指導者がおらず、イスラエルには交渉相手がいなかった」ことだと考えます。
次の投稿に続きます。
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