さて、二択です。
- 政府と政策は最高に良いけど、無気力な国民
- 政治は酷いけど、元気、勇気、やる気に満ち溢れている国民
どちらの国が発展し、どちらの国が衰退するでしょうか?
いうまでもなく、発展するのは、2の【やる気に満ち溢れている国民】の国のほうです。政治がどれだけ優れていても、1の【無気力な国民】では、衰退一路です。
実際には、政治が良ければ国民はやる気が出ることが多いです。逆もそう。
私たちは有権者として、政治をよくする責任があるから、政治に対して、あれこれ意見を言うのは当然です。ただ、政策とは、私たち国民の頑張りへのサポートにすぎません。
こんなこと書くと「頑張れない人はどうするんだ」という人が出てきますが、どんな人でも、前向きに生きていることが頑張っていることなのです。
と書くと「前向きに生きていけない人はどうするんだ」とかいう人がでてきます。それも答えられますが、エンドレスゲームになるのでやめておきます。こういうケチをつけることが後ろ向きなので。
「政治さえ良くなれば、自分たちは幸せになれる」と考えているような人は、永久に幸せにはなれないと思います。
プライベートの充実が、モチベーションにつながることは言うまでもありません。
また、「国が政策で後押ししているから頑張ろう」とモチベーションが上がることは、あると思います。日本の国をよくするのは、何よりも、私たちの「やる気」です。
そのきっかけとして、誰かの頑張りが刺激になって、モチベーションが上がることがあります。今回は、そういう話です。
東京五輪
ということで、東京五輪の話です。
前回(昭和39年)の東京五輪では、敗戦で自信を喪失した日本国民が、東京五輪の開催で自信を取り戻し、高度経済成長が加速したと言われています。筆者は、当時の状況は知らないので、まるで日本国民が一丸になっていたような印象でしたが、いろいろ聞いてみると、前回の東京五輪は、今回とか桁違いに反対(特に暴力的反対)は大きかったそうです。何しろ、そのころは、中国(中華人民共和国)は国際関係から外されて五輪にも参加しませんでしたが、日本の最大野党である社会党は、中国共産党の友党として蜜月関係でしたから。
いつの時代も、そんなものです。反対するような人は一定数います。
五輪に反対する人たち
「今回の開催には反対するという人」と、思想としての「反五輪主義者」を分けて考えています。以下は「反五輪主義者」の話です。
警察庁の資料から。
第1 公安情勢
(4) 反グローバリズム運動
さらに、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会に対しては、 国内の反グローバリズムを掲げる勢力が中心となり、開催1年前となる令 和2年7月、都内において「中止一択!東京五輪」(集会・デモ)に取り組 んだ。 反グローバリズムを掲げる勢力は、今後も、経済のグローバル化を推進する国際会議等に対し、抗議行動に取り組んでいくものとみられる。
「治安の回顧と展望」令和2年度版
「反グローバリズム」といっても、幅が広いです。聖火リレーを消そうとして警察に2週間も勾留されたり、アスリートに対しても嫌がらせを繰り返す暴力的な人たちもいれば、良識的な人もいます。ただ、良識的な人であっても、暴力的な反グローバリストとの連帯を表明するなどの行為は、暴力を認めるのと同じことです。
反五輪主義者の主張は、こんな感じ。
オリパラ利権をほしいままに貪り、日本社会を思うままに操る立場にいる者たちにとって最も都合のいい「次世代」とは、まさにオリパラの「感動体験」を「人生の糧・レガシー」とし、オリパラの垂れ流す能力至上主義を内面化できるような子どもたちです。(略)
子どもの心と体をまるごとからめとり、オリパラ成功の道具に利用し、自分たちを利する「期待される人間像」を押し付ける日本の政財界の腐敗と、「一生に一度の感動体験」にいともやすやすとだまされていく「国民」のありようこそが、子どもたちを守るために、今こそ問われなければならないのではないでしょうか。
https://hangorin.tumblr.com/post/656588983299620864/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E9%80%A3%E6%90%BA%E8%A6%B3%E6%88%A6%E3%81%AE%E5%85%A8%E9%9D%A2%E4%B8%AD%E6%AD%A2%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%82%8B%E5%A3%B0%E6%98%8E
まだ、日本にも、こういう人たちがいたのか?びっくりした。
「オリパラの「感動体験」にいともやすやすとだまされている」と書いてあります。「だまされる」結果として、悪いことが起こるのでしょうか?この文章の意味が理解できますか?
「能力至上主義」という時点で、歪んだ考え方です。誰も「能力」を讃えているのではありません。そこに至る努力(勝者も敗者も)に感動しています。反五輪主義者は、心のどこかで、自分たちのしていることが間違っているとわかっているので、「感動」が怖いのです。
アスリートをまるで物のように扱い、搾取する。アスリートたち自身の表現や抵抗は、どのような形をとったものであれ、罰金や不当な取り扱いによって、沈黙へと追い込まれます。
「反五輪の会」https://hangorin.tumblr.com/post/657755589766791168/23june2021-shinjuku-anti-olympics
反五輪主義者の主張は意味不明です。一方で、アスリートのSNSでの発信に対して執拗に、沈黙させようと嫌がらせをしていることを自慢げにツイートしています。手段が汚すぎます。
反五輪主義者の五輪反対は、コロナ禍に関係なく、それ以前からのものです。「優生思想でおそろしい」ので、オリンピックはいらないそうです。
「優生思想」って、生まれながらに能力差があることに対して、言っているのでしょうか?アスリートは、子供の頃から身体能力が高いことが多いです。でも、身体が弱かったからスポーツを始めた、というアスリートも多くいます。どちらも、努力を積み重ねています。反五輪主義者が許せないのは、努力の格差です(「努力できない環境に強いられている」とか言っています)。
彼らの「横並び至上主義」にとって、「金持ち」は遠くにいる敵にすぎませんが、「努力する人」は近くにいる裏切り者なのです。
さらに「優生思想」って、パラリンピックの選手に対しても、そういう気持ちなのでしょうか?
パラリンピックは、「スポーツに打ち込む」という生き方を選択している個々の「障害」者アスリートを、「できない」「がんばらない」人たちの尻を叩く道具にし、オリンピックの内包する矛盾をおおいかくす役割を負っているといっていいでしょう。
「反五輪の会」https://hangorin.tumblr.com/
しかし、パラリンピックのアスリートへの侮辱が甚だしすぎます。筆者(及び大多数の国民)にとって、努力は感動と賞賛の対象ですが、反五輪主義者は、それが許せないのです。
筆者は、大病で、12時間の手術をした体験があり、手術後は1年以上も、痛みが消えず、十分な睡眠が取れない(仮眠状態)が続き、体重が15kg減りました(もともと痩せ型だが)。そのことを経験してから、パラリンピックの選手たちへのリスペクトが変わりました。競技を見ているだけで、涙がポロポロ流れて止まらないのです。自分と重ね合わせるから、自分が痛みと苦しんだ時期を身体が思い出してしまうからです。
パラリンピックで頑張るアスリートを観て、筆者も「自分も頑張ろう」という気持ちになることは確かですが、それが「尻を叩かれる」という発想になるとは(絶句)。
形式的平等だけをひたすら要求する「横並び至上主義」の反五輪主義者にとって、勝者敗者が明確なスポーツは、許せないのです。私たちは「結果」ではなく「過程」に感動します。それは、自分のしてきた努力と重ね合わせるからです。でも、彼らは、本当の努力をしてきたことがないので、「過程」の大切さが理解できず、結果だけしか見えないのです。そして、「負ければ全てがパー」と負けを極度に恐れて、1ミリも抜け駆けを許さない「横並び至上主義者」となったのです。
反五輪主義者の「横並び至上主義」は、その言動において顕著です。仲間にはひたすら「同調」を求め、ほんの少しの意見の違いも許せません。全体主義とはこういうものか、と教えてくれます。
まだまだ、書き足りないが、さすがに、こういう方達には関わり合いたくないので、これぐらいに。
アスリートに自分を投影する
筆者は、大病を体験するまでは、「五輪に出るようなアスリートはカッコいいな」でした。でも、大病を体験してからは、「アスリートの怪我」というところが、どうしても気になってしまいます。アスリートの素晴らしいところは、身体能力の高さではありません(それもあるけど)。怪我をはじめとする挫折を乗り越える精神力です。「アスリートはカッコいい」から、リスペクトに変わりました。
筆者が痛みと闘っていたとき、何度も自爆自棄になりそうになりました。そこから、また前を向くためのモチベーションは、いろいろあるかと思いますが、「前を向くための勇気をくれる人」は、とても貴重です。パラリンピックの選手たちへのリスペクトは、何にも変えられません。
筆者は、五輪に出場するアスリートの、怪我や挫折を乗り越えて目標を目指す姿を見ていると、自分も頑張らなきゃという気持ちがふつふつと湧いてきます。アスリートを応援しているのと同時に、アスリートに自分を投影しているのかもしれません。もっと若い頃はこうではありませんでした。挫折や病気や失望を多く経験するにつれ、他の人の人生と自分を重ね合わせることができるようになりました。(年をとるほど涙脆くなると言われますが、その理由がわかります。)
多くの国民がそうではないでしょうか?アスリートを自分と重ね合わせて、自らのモチベーションにつなげているのではないでしょうか?
ですから、今回、菅首相や小池知事が、「五輪は開催するのだ」と強い決意を貫いたことは、とても良かったと思います。正直、筆者自身の菅首相や小池知事も対する評価は高くありませんでしたが、是々非々で、これは本当によかったです。
アスリートの選手生命は短いです。何回も五輪に出場できる選手もいますが、この1回のみという選手もいます。未成年の頃から、多くの我慢や忍耐や試練や挫折を乗り越えて、やっと五輪代表になったのに、「中止」で、永久にメダルへのチャレンジの機会が奪われるとなったら、どうでしょうか。
例えは変だけど、大学受験に向けて受験勉強を重ねてきた受験生が「コロナ禍で受験は無し。大学に入学したければ、次は4年後。」と言われたらどうでしょうか?アスリートが費やしてきた時間や心は、到底、その比ではありません。ちょっと、アスリートの気持ちに思いを馳せて、思いやることはできないのでしょうか。
自宅で五輪観戦していれば、コロナ禍は拡大しません。コロナ禍は五輪反対の理由にならないどころか、無観客の自宅観戦での五輪開催はコロナ対策でもあったのです。
コロナ拡大が五輪のせいなら、なぜ、東京から遠く離れた地方でも拡大しているのだ!
心を一つに
アスリートのことを、自分の子や孫のように想い、活躍を喜ぶ人が、日本中に大勢います。五輪は、日本人の心を一つにします(一部の人たちを除く)。また、他国のアスリートは競技中はライバルですが、競技が終われば健闘を讃えあう間柄です。五輪は、世界を一つにします。
アスリートは、私たちの象徴なのです。
何よりも、世の中を良くするのは、そういったことだと思うのです。
昭和39年。前回の東京五輪の前に、昭和14年も東京五輪の計画があり中止となりました。その後、しばらくは、五輪はなく、あっても、日本人は出場できませんでした。五輪は、平和の祭典なのです。
まあ、商業主義に偏りすぎていることは直して欲しいです。特に、真夏開催というのは、アスリートファーストではありません。
昭和39年の東京五輪
さて、もう一度、昭和39年の東京五輪に話を戻します。
東京五輪以降、高度成長は加速します。
上図を見てもわかるように、賃金上昇率からインフレ率を引いた、実質賃金上昇率が、平均8%ぐらいです。すごいですね。筆者は、原因を探るべく、昭和20年代から60年代まで下のURLの政府資料を延々と読みましたが、感じたことは
思うに、第二次世界大戦で敗戦した昭和20年。この前後に10代、20代だった人たちが高度成長の主役でした。この世代の人たちに共通していたのは、敗戦体験。つまり、「国(政府)は、偉そうなことを言うが、いざというときは役に立たない。何の助けにもならない」という覚悟だったのではないでしょうか。高度成長が実現できたのは、国の政策などではなく、国民の「やる気」の力です。
今の時代。なんだかんだ文句は言っても、みんな、政治に甘えているし、政治も国民に甘えているように思います。そこが、昔と今の違いです。
現代の日本は、「豊か」だけど「希望」がない時代だと言われます。逆に、前回の東京五輪の時代(昭和39年)は「貧しい」けれど「希望」に溢れていました。現代の日本人は、昭和39年に生きていた日本人よりは豊かなのは誰も否定できないところです。あとは、希望です。いつの時代でも、希望を与えてくれるのは、政治ではありません。
政治には期待しています(政治にしかできないこともありますので)。でも、政治だけに期待するのは大きな間違いだと思います。私たち国民がまず、自分に対して期待すること。職業として、収入を得ている以上、仕事をしていることは社会の役に立っているということを誇ること。まず、そこから。