多様性とグローバリズム

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今回は、最初に「生物多様性」の話から始めます。「えっ、興味ないわ」と言うなかれ。じゃがいも(ポテト)の数奇な歴史から、経済のグローバリズムの話へと進んでいきますので。

生物の多様性

筆者は、自然保護系のボランティア活動をしているのですが、生物多様性を語るとき、必ず登場する歴史事例があります。まず、その話から。

アイルランド飢饉

大航海時代に南米ペルーからヨーロッパへ伝えられたものの一つにジャガイモがあります。その頃のアイルランドは、イギリスとの間で戦乱が続き、植民地化と独立を繰り返していました。穀物と違って、地中で育つジャガイモは戦乱で畑が踏み荒らされても収穫できることもあり、寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこともあって、一気に普及していきました。

もともと、南米から欧州に持ち込まれたジャガイモには、いろいろな品種がありました。しかし、アイルランドでは、19世紀初めには収量量の多いランパーと言われる品種だけが栽培されるようになっていたのです。品種が一種類だけと言うことは、疫病が流行すれば全部やられてしまう、という危険性がありました。

そして、1840年代、ヨーロッパ全土に大規模にジャガイモ疫病菌が発生しました。後の研究で発生源はアメリカ大陸だったことがわかっています。しかし、もともとジャガイモを食べていた南米では、1つの畑に10種も20種もの品種を混ぜて栽培する習慣が伝統的に存在し、これが特定の病原菌の蔓延を防いでいたので、壊滅的な打撃となることはありませんでした。

ジャガイモはクローンによって増えていきますが、当時アイルランドで栽培されていたジャガイモのランパーは全てがクローンで、遺伝的に均一だったのです。ランパーは特にこの疫病に弱かったらしく、一気に疫病が広がっていきました。この疫病はカビの一種で、生育中のジャガイモも、倉庫で備蓄しているジャガイモも、瞬く間に腐ってしまったということです。もしもこの時、アイルランドのジャガイモに遺伝的多様性があれば、疫病に抵抗力のあるものが生き残っていたかもしれません。結局、ランパーは絶滅しました。

飢餓で苦しむ人たちをコレラが襲います。その影響で80万人から100万人が亡くなり、200万人以上がアイルランド島外に脱出しました。飢饉の前のアイルランドは800万人以上の人口がありましたが、現在のアイルランドの人口は約490万人(2019年)。一方アメリカをはじめとする国外に居住するアイルランド系の人々はおよそ7,000万人となっています。(ジョン・F・ケネディ、ロナルド・レーガン、ビル・クリントン、バラク・オバマ(母方)、ジョー・バイデンなど、アイルランド系移民は、近年のアメリカ大統領を輩出しています。)

この惨状を深刻化したのは、「市場が必要な食料を供給してくれる」という、この当時にアイルランドを支配していたイギリス本国の自由放任主義でした。ここもツッコミどころ満載なのですが、今回は、話を先へ進みます。

近代農法と伝統農法

ジャガイモの話です。最近でも、疫病が発生することがありますが、そんなとき新しい菌株に対して抵抗性のある品種として、重宝されるのが、ジャガイモの原産地である南米アンデス山中で現地の農民が昔から栽培している多くの品種の中から探し出された品種です。ジャガイモの栽培種は植物学的には7種ありますが、現在のアンデス地方にはこれら全部が揃っていて、その品種は数千種あると言われています。アンデス以外の世界中で栽培されているのは7種のうちの1種だけであり、この1種からさまざまな品種が作り出されました。

近代農法は少数の優良な栽培品種を広範囲に栽培することにより,高い生産性を実現してきました。一方、南米アンデスのジャガイモの生産性は、先進国の10分の1程度だそうです。しかし、疫病大発生などの危機が起こったとき、強いのは、多様なアンデス農法のほうなのです。アンデスでは数千年も飢饉は起こっていないそうです。

生産性だけを考えれば、美味しく収穫量も多い一品種だけを集中的に栽培するのが効率的です。しかし、それでは、危機に弱いのです。

これは、ジャガイモだけではなく、全ての生物の多様性に当てはまります。

社会の多様性

生物多様性の重要性が周知されてきたことを受けて、日本でも生物多様性基本法が2008年に交付されました。そこでは、「生物の多様性は人類の存続の基盤となっており、地域における固有の財産として地域独自の文化の多様性をも支えている」と宣言しています。

国や地域によって動植物が違うと、人が食する食物も異なってきて、食文化も地域性豊かなものになります。文化の多様性、経済の多様性も、そこに根ざしており、長い年月をかけて幾多の困難を乗り越え磨きあげられてきます。

ここまで書くと、話の展開がわかってきたと思いますが、

生物の多様性、社会の多様性、経済の多様性、それらは密接に繋がっていて、そのメリットは共通のものです。グローバリズムの最大の弊害は、多様性を損ない、画一性をもたらすことにあるのです。

多様性の喪失の結果

多様性は、私たちの先人が、多くの失敗と成功を積み重ねた履歴です。地域共通の財産の宝庫です。世界各国、各地域には、長い歴史、伝統に培われた伝統(つまり、先人の知恵)が残っています。この蓄積が、世界各国、各地域に、それぞれ固有な社会制度となっています。これらを捨て去り、画一化することは、多くの知恵を捨てることなのです。

極端な例でいえば、英語を共通語にして、それ以外の言語を廃止すれば、世界の効率化は進みます。でも、日本の伝統的な知恵の多くは忘れ去られるでしょう。

伝統の知恵の中には、危機に対処する知恵が多く含まれています

多様性は、(ジャガイモ飢饉の事例のように)危機への分散保険です。リーマンショックのようなことが起きると、世界中が金融危機になります。100年前の世界大恐慌では、世界中が大恐慌になりました(この時期のソビエト連邦は、共産主義体制で世界経済から隔離されていたため、むしろ、大きく発展しています。別の問題はありましたが)。

とは言え、ジャガイモの例でいうと、生産性が低ければ食料需要は賄えないことは明らかであり、近代農法を中心に据えながら、伝統農法も守っていくというのが現実的な選択肢なのかもしれません。

緑の砂漠と、里山

もういちど、生物多様性の話に戻ります。

日本は、国土の3分の2を森林が占めています。山といえば、森です。飛行機で上空から眺めれば「なんと緑が多いことだろう」と思うでしょう。しかし、その多くの部分は、実は「緑の砂漠」なのです。

緑の砂漠とは、聞きなれない言葉かもしれません。日本の森林の40%は、住宅建設木材用として植林されたスギ、ヒノキなどの人工林です。たいていは、同じ年齢の同じ種類の木が整然と植えられています。しかし、木材価格が低下し、多くの人工林は、除草、間伐、枝打ち、などの人間の手が入らない放置された森林となってしまいました。

人間の手が入らないとどうなるのでしょうか?スギ、ヒノキなどの高木が密集すると、高いところでは葉が密集し、緑豊かです。しかし、高いところにある密集した葉に遮られ、日光が入らず、中は真っ暗で、低い木も草も生えてきません。食事となる植物がないので動物もいません。上空から見れば、緑がいっぱいに見えますが、生き物の気配がしないのです。

本来の森林は、雨が降っても落ち葉や草がショックを和らげてくれます。水が浸み込むときに土の粒子が砕かれることはありません。でも、高木だけが群れて高密度で成長し、緑の砂漠となった森林では、土がむき出しになっているため、雨のショックで土が砕かれて流され、木の根が地表に露出してしまっています。低い木や草の根もないため、根が土を支える力が弱く、土砂災害が起きやすくなるなど、災害に対して弱い森になってます。

それに対して、健康な森林では、高い木は間隔を空けて植っているため、日光が森林の中にも差し込み、低い木も草も豊かに生えています。動物たちも集まってきます。生物多様性が豊かな森です。しっかりと根を張り、災害に強い森です。このような森は、人間が、定期的に、除草、間伐、枝打ち、などをおこなうことによって創られるのです。

森の中で、高木だけが密集して繁殖すれば、暗すぎて低木や草は育ちません。でも、高木がなければ日光が一日中、照りつけて、低木や草は枯れてしまいます。

多様性が、強さとなります。

生物多様性への関心が高まってくるに従い、「里山」が注目を浴びるようになってきました。人間が手をかけず放置するのではなく、人間が適度に手を加えることによって、生物多様性が豊かな自然が育つという考え方です。

この話も経済に似ていませんか?

政府が全く何もせずに放置していれば、自由で活発な市場経済が営まれるのでしょうか?いや、すくなくとも、著作権法や独占禁止法などの政府の規制がなければ、自由ではなく、無秩序に支配され、経済は衰退するでしょう。

巨大企業だけがぐんぐん巨大化して、表面的には経済が発展しているように見える一方で、中小企業や、小規模事業者、ベンチャー企業などは、萎んでしまうでしょう。巨大企業に安値競争を挑まれれば、体力に劣る小さい企業は太刀打ちできません。巨大企業は、安値競争を仕掛けてライバルを追い落とした後で、値上げすることでしょう。

政府の過度な規制と同様に、政府の無責任な自由放任も、自由な経済の成長を妨げるのです。

かと言って、大企業への法人税増税などは、愚かです。大企業には、横暴が多いことはありがちですが、増税で、変わるものではありません。

「大企業が中小企業のイノベーションを妨害すること」を防ぐために機会の均等を保証するルールが必要なのであって、大企業のイノベーションを妨害するのは、本末転倒です。

自由競争とは、ルールがないことではありません。自由競争社会とは、規模や資金力などのハンディを乗り越えて対等に競争できるようにするルールが整備されている社会です。

グローバリズムとローカリズム

グローバリズムの定義、というかイメージが、人によって違い、今一つはっきりしませんが、

「反グローバリズム」という場合は、アメリカ的価値観で他の国の文化を壊していくアメリカ帝国主義のことを指すことが多いようです。それこそ、画一性の押し付けです。

でも、実際には、そのようにはならないんじゃないかという気持ちもあります。人間は豊かになれば、画一性を嫌うようになるからです。

豊かになればなるほど、画一的なものより希少性や個性が価値を持ってくるようになります。グローバリズムが進むほど、ローカリズムに価値が出てくるのです。

人間の本性が、多様性を尊ぶのかもしれません。そう考えると、現実に起きることは、グローバリズムとローカリズムとの対立ではなく、共存なのかもしれません。

マクドナルドは「マクドナルド化」という言葉が生まれるほどグローバリゼーションの徹底した企業ですが、「てりやきマックバーガー」というローカルなメニューが人気です。

トヨタやホンダも、世界の地域ごとに、違う仕様の自動車を投入しています。

世界と日本との関係だけではない

グローバリズムといえば、日本と世界との関係のことばかり思い浮かべるかもしれませんが、戦後日本の歩みは、日本中の地方都市を、ミニ東京化し、画一化してきた歴史でした。国内グローバリズムと言っていいかもしれません。地方の個性を、中央が殺してきたのです。

日本vs外国の問題でもあり、中央vs地方の問題でもあります。ですから、反グローバリズムを、ナショナリズムと結びつけるのは、本質ではないのです。ナショナリズムは、外と内を区別するために、内に画一性を求めるようなところもあります。

 ナショナリズムを訴えることで免罪符を得て、グローバリズムを進めている政治家や識者も多いようにも思えます。

一方で、「日本の常識は、世界の非常識的だ」的な、ポリティカル・コレクトネス。何が人類に普遍的な価値で、何が多様性なのか、とても難しいです。

 必要なのは、外国を排斥することではなく、巨大企業を排斥することでもなく、多様性ある経済を守り、創ることなのです。

価値観の多様性

もう一つ。

「清貧が美徳」と考えている人に、物や金に溢れた生活を強要することがいいことなのでしょうか?

仕事中毒で24時間働きづめの人と、最低限の労働で趣味三昧の人との間に、収入格差があることが、悪いことでしょうか?いいえ、金銭を多く獲得することを人生の目標にしている人、逆に、そういうことに価値を見出していない人、人の生きかたはいろいろです。価値観に、多様性を認めるべきです。

この国から、貧困を抹消することは国の最優先の責務ですが、そこから先は、個人の自由の領域です。

いわゆる新自由主義も社会主義も、金銭を過剰に重視する画一的な価値観同士のコップの中の争いで、今の日本は、「金銭の保有が少ないことが惨めである」という風潮が蔓延しています。しかし、かつて私たちの先祖は「宵越しの金は持たないこと」を「粋だねえ」と自慢していました。そこには、自分より金銭の保有が多い者に対する醜い嫉妬はありません。金銭に過剰に執着せず、宵越しの金は持たなくても、満足した生活を過ごすことができる、それが理想の国ではないでしょうか?

実際には「新自由主義」なる経済学は存在しませんが、説明としてわかりやすいので、言葉として使いました。

必要なのは、上を引き下げる「格差はけしからん」ではなく、下を引き上げる「貧困は許さない」です。いい加減、貨幣プール論を卒業しませんか?

国に求められているのは、誰もが文化的な生活と機会の均等が与えられた「最低限の保証」です。なぜかそれが、単一の物差しによる「格差の解消」とすり替えられていますが、それでいいのでしょうか。

社会経験の多様性

もう一つ。

冒頭に書きましたが、筆者が自然保護のボランティアをしていてよかったと思うことに、社会への関わり(アクセス)のチャンネルが増える、ということがあります。このボランティアをしていなかったなら気がつかなかったことはいくつもあります。

その一つが、「大企業って、思ったより、社会貢献に熱心」ということです。上場企業なら株主向けにCSR報告書が求めらることもあって、社会貢献のネタを探し回っているという印象があります。役所の場合には、補助金が出たとしても、お金を出して終わりです。でも企業の場合は、補助金も出し、社員に活動を紹介してくれて、社員たちが活動に参加してくれます。

逆に、自然保護活動でもなんでも、常に立ちはだかるのは「役所の壁」です。環境を所管する部署から外れると縦割りで横の連絡が悪く、次々とハードルを超えなければなりません。最初は、たまたま役所の担当者が「役所的」なタイプだった、と諦めても、じきに役所の本質的な問題であることを思い知ります。

そういうわけで、筆者は体験的に「役所には無駄な規制が多すぎる」と思っています。でも、逆に「役所はもっと規制すべきだ」という体験を持つ人もいます。おそらく、どちらも正しいのです。みんな、局所的に近視眼で社会を見ているに過ぎません。社会経験は人それぞれ違うので、見ている景色が違うのです。物事はいろんな角度から見て、立体的な全体像が見えるので、自分の意見が絶対に正しいなどということはあり得ないのです。

まとめ

  • 反グローバリズムは、ナショナリズムと結び付けるべきではない。
  • 大切なのは、経済の多様性。巨大企業から、中小企業、個人事業者まで、バランスの取れた経済発展が大切。政府がするべきは、ルールの整備。

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