10人の世界で考える、シンプルな経済成長

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経済成長って、なんぞや。そこで、もっともシンプルに、10人の世界で考えてみます。

前提として、筆者は、経済的な豊かさが、豊かさの全てだとは、全く思っていません。

だけど、生産性が向上し、経済的な豊かさがある程度、手に入れば、それ以外の豊かさに目を向けて追いかける余裕も出てきますので、さまざまな豊かさが、それぞれ独立して存在しているとも思いません。

10人の世界の経済から

ここで登場するのは、貨幣のない物々交換の世界です。ですから、インフレもデフレもありません。

経済が成長する

世界に、10人の住民がいます。農業の生産性が低いので、1人が働いたぶんでは1人分の食料しか作れません。10人が働いて、10人分の食料が生産できます。

これでは、全員が農業に従事しないと食べていけないわけですね。農家(農業従事者)が10人です。ここから、経済成長するには、方法は一つしかありません。生産性向上です。それ以外の方法は、ありません。

農業技術が上達し、1人あたり2人分の食料が生産できるようになりました。島全体10人の食料をつくるのは、5人で足ります(5人×2人分=10人分)。あとの5人は、仕事がなくなりました。

生産性が向上すると、失業が発生します。農家が5人、失業者5人です。

成長が著しい社会では、多くの失業が一時的に発生します。

いくら、生産性が2倍になるとは言え、失業率が50%になるのは、社会が混乱しすぎます。つまり、成長が早ければ早いほどいいというわけではなく、適正な速度があります。

そこで、後の5人は別の仕事を始めることにしました。土木屋さん(水路を整備する)、大工さん(倉庫や住居を建築する)、鍛冶屋さん(農業用具を作る)、仕立て屋さん(作業着を作る)、靴屋さん(靴を作る)などなど

新しい仕事、新しい市場ができました。農家が5人、いろんな仕事5人です。農家(最初の5人)は、1人につき2人分の食料を作っているので、残りの1人分と交換で、水路工事、倉庫、などを手に入れます。

実際には、貨幣のない原始社会で「物々交換」により経済が回っていたというのは、最近の人類学者によって、ほぼ否定されています。それが、MMTへの評価にも関わってくるのですが、ただ、ここでは、説明上、わかりやすいのでそのまま続けます。

生産性が向上すれば、そのままでは、その市場は労働者飽和状態を超えるので、新しい市場を作ることが必要になります。その新しい市場が、経済成長の第2段階です。

あるいは、その市場が大きくなるという方法もあります。

その結果、食べるだけで精一杯だった非文明的な(?)生活が、少し文明的になります。

大雨や洪水への対応ができるようになった結果、さらに生産性が向上し、農家1人で10人分の食料が生産できるようになります。あとの4人は、別の仕事を始めます。マッサージ屋さん、映画監督、漁師さん、ゲームクリエーター。

農家が1人、いろんな仕事9人です。実は、他の仕事も生産性が向上したので、さらに分業が進んでいます(土木屋さんが、セメント屋さん、クレーン運転手、測量士さん、などに分かれます)。

新しい市場を作って、さらに経済成長

新しい「物サービス」を作って、市場を作る。これも経済成長に必要です。しかし、新しい「物サービス」が、古い「物サービス」に置き換わるだけでは、経済は拡大しません。古い「物サービス」では2人分の労力がかかっていたことが、新しい「物サービス」では1人分の労力でできるとか、そこには生産性の向上、拡大が伴う必要があるのです。

このように、農家や、それ以外の仕事の生産性が拡大していった結果、購買力が増え(需要力拡大)、新しい仕事が生まれ(供給力拡大)、経済が発展していきます。

農家の収入は、10倍になりました。他の仕事も、実際にはばらつきがあるかもしれませんが、10倍になり、経済全体が10倍の規模になったのです。

もし、最初の農家10人が、全く生産性が向上しない(1人につき1人分しか食料が生産できない)としたら、経済は発展せず、毎年同じことの繰り返しになります。

整理します。経済成長の基本パターンです。

既存の市場で、生産性向上があれば、市場規模が変わらない場合には必要な労働者数が減って、一部の労働者は失業します。(あるいは、市場自体が大きくなり労働者をそのまま吸収できることもあります。)

その場合、失業した労働者により、新規の市場が作られます。既存の市場の労働者は購買力が増しているので、新規市場の消費者となります。

経済を身体に例えると、生産性向上とは「筋肉を作る栄養」です。筋肉を育てていかないと、身体(経済)は成長しません。

筆者に置き換えて考えてみると、この最初の「農家1人分を1人で作る」すら、大変です。農業は憧れますが、無理です。社会で分業が発展し、自分にもできる仕事に巡り合って、食料や生活必需品、嗜好品、贅沢品を買うことができるようになりました。

分業の行き過ぎも、弊害もあるのですが、

経済が成長するということは、多様性が認められ、多様な生き方が可能になるということなのです。

経済が揺れ動く

ところが、天候が不順になると農作物が思ったより出来が悪くなります。逆に、天候が良すぎて、思ったより農作物を作りすぎたりします(農業以外でも同じことが起こるのですが話がややこしくなるので省略)。

農家が「今年、農作物の出来が少なかったから、収入が減った。来年の肥料購入は減らすことにするわ」と決めました。こまったのは、肥料屋さんです。「肥料の売り上げが減りそうだから、倉庫の新規建設はやめておくわ」。次は、大工さんが困ります。

こうして、(供給の減少をきっかけとして)需要の減少の連鎖が起こります。

こういうときは、「栄養」以外の方法、「滋養強壮剤」とか「薬」とか、必要になります。でも、それは、一時的に身体を元気にするけど、身体(経済)の成長とは違うのです。

 財政支出のうち、ハードやソフトのインフラ投資は、身体に例えると「骨を丈夫にする栄養」にあたります。これは、最も基本で大切なものです。でも、景気浮揚策とか称した一部の財政支出は、「薬」のようなものです。身体が病気のときは必要でも、止める時期を探らないと「薬漬け」になります。

例えるなら、子供にお年玉をあげても、「ゲーム代に使ってパー(非生産的政府支出)」かもしれないし「参考書を買って勉強して将来投資(生産的政府支出)」かもしれません。国民への給付金への否定派は前者をイメージするし、肯定派は後者をイメージして需要喚起は供給力増強に回るのだと強弁します。イメージする景色が違うから、議論はむずかしいですが、そもそも、財政支出は目的と効果が明確なものを対象とすべきだと思います。

経済成長のスピードも大切

さて、最後に付け加えますが、

先に書きましたが、生産性向上は雇用減少、失業を伴うことがあります。あまり急激だと、痛みも大きいです。国も企業も、経済成長は100m走ではありません。マラソンです。全速力で走れば、疲れて倒れてしまいます。永続する走りをしなければなりません。

まとめ

以上、貨幣のない物々交換の世界(インフレもデフレもない)で、経済成長をイメージしてみました。また、次は貨幣を導入した世界でイメージしてみます。

貨幣が入るとややこしくなります。生産性向上は、デフレ要因だし。

  • 経済成長とは、第一に生産性向上です。経済的に豊かになるとは、生産性向上の結果です。
  • 経済成長とは、第二に(古い市場からの置き換えではない)新しい市場の創出です。
  • それ以外の方法もありますが、上の2つが基本形です。

江戸時代の農民(余談)

経済を考えるときの基礎に食料を持ってくるのは、基本に戻るという意味でいいかなと思います。もし、経済が破壊され、生きるために原始的な経済に戻らなければならなくなったとき(昭和20年の敗戦後の日本とか)、「まず食料」となるはずです。

ここからは、余談。江戸時代の話です。

江戸時代には、金貨・銀貨・銅貨の交換比率は変動相場制だったために、米が基軸通貨的役割を果たしていました。

米相場の変遷 米一石に対する銀匁

実は、江戸時代以前にあった単位に「石」というのがあります。「伊達藩62万石」とかいうときの「石」ですが、これは、大人1人が1年間に食べるお米の量とほぼ同じなのです。つまり、伊達藩では62万人が養えるということです(アバウトですが)。

 とすると、事例にあげた、10人の世界は「10石だったのが100石になった」と言えます。

 wikipedia「旧国郡別石高の変遷」によると、陸奥国仙台領(伊達藩ぴったしイコールではないが)は、正保年間(1644年〜1651年)に654,110石だったのが、明治5年(1872年)には994,594石になっています。これを割り算すると、221年で52%のGDP成長率だったということになります(実際にはコメ以外の経済もある)。

 日本全国では、慶長3年(1598年)には18,509,043石だったのが、明治5年(1872年)に32,373,825石になっています。明治5年の日本の総人口は、3,480万人ですから、ほぼ一致します。

 ただ、10人の世界のケースモデルでは、経済成長に伴い、農家人口割合が減っていきますが、江戸時代はそうではなかったようです。農民比率は、江戸末期でも8割を超えていました。しかし、農民の生活がずっと貧しいままだったのかというと、そうではありません。農業器具の改良で生産高が上がり、税金(年貢)が「二公一民(2/3が年貢)」から実質で「一公二民(1/3が年貢)」ぐらいと減っていきました。

また、生産性向上の結果、余裕ができます。農民は、コメ以外の市場向けの作物を作って売るようになり、日用品を購入するなど貨幣経済に入っていきます。コメづくり専従割合は、ずっと下がっていったのだと思います。

大河ドラマの渋沢栄一の実家も、農家といいつつ、コメ作りのシーンは全く出てきませんね。商売で江戸に出てきたり、道場で剣術や論語を学んでいたりします。日本の資本主義の父と呼ばれた人物が、百姓から生まれたということは、とても日本らしいと思います。

最後に、栄一の玄孫である渋澤健氏が、栄一の著書であり、今も多くの企業人の指南書となっている「論語と算盤」について、書かれた文を紹介します。

ポイント1

経営者だけが利益を得るのではなく、社会全体が利益を得る「理念」「倫理」にかなう志の高い経営を行わなければ、幸福は持続しない。

ポイント2

利益はすべて自分のものだとひとり占めすることなく、利益を社会に還元しなければ、経済活動は持続しない。

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