イスラエルとパレスチナのWIN-WIN【後編〜現代と未来】

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後編は3ページに分かれています

さて、前編、中編、後編と長くなりましたが、最後に未来への展望です。

かなり、大雑把な夢みたいなことを書きますが、大筋では、こんなものかなと思います。

Win-Winの関係

水を創り出す技術

イスラエルは南半分が砂漠です。平野の首都テルアビブでも、年間降水量700mmで、東京の1500mmの半分以下です。(別図は年間降水量)

隣国ヨルダンは、国土の8割が砂漠です。さらに、その向こうには、延々と砂漠が続きます。アラブ人全体では、イスラエル国土の数十倍の不毛の地を抱えています。土地はあっても、不毛の地なのです。

しかし、近年、イスラエルは、水を作り出す技術で凄まじい進歩を見せています。

これについては、船井総研の記事で紹介されています。かいつまんで書くと、

  • 市民の生活用水の約7割が海水の淡水化で作られていて、飲料水としてそのまま飲むことができます。
  • 農業用水の約85%が下水を浄化した再生水で賄われています。
  • 農業生産においては、点滴灌漑技術で、土に水をまくのではなく植物の根に直接水を送り込む方法で必要な水の量を抑えています。
  • 衛星からの画像データをもとに漏水の検知をする技術で漏水対策が取られています。
  • 空気から安全な飲み水を作り出す技術も開発されています。

イスラエルの農業従事者は、人口の2%ほどですが、食糧自給率90%以上であり、柑橘類などは世界有数の輸出国です。その秘訣は、ICを駆使したスマート農業の生産性の高さにありますが、その中心に砂漠地帯を農地に変える「水技術」があります。

イスラエルは必要に迫られて、地球上のどの国よりも一滴の水からより多くのものを搾り出す方法を学んでいます。その学習の多くはザッカーバーグ研究所で行われており、研究者たちは点滴灌漑、水処理、脱塩の新しい技術を開拓しています。(略)

同研究所の当初の使命は、イスラエルの極度に乾燥したネゲブ砂漠の生活を改善することであったが、その教訓は肥沃な三日月地帯全体にますます応用できるようになってきた。「中東は干上がりつつある」と、農作物へのリサイクル廃水の利用を研究しているザッカーバーグ研究所のオスナット・ギラー教授は言う。「深刻な水ストレスに苦しんでいない唯一の国はイスラエルです。」

この水ストレスは中東を引き裂く混乱の主な要因となっているが、バージーブ氏はイスラエルの解決策が干上がった隣国も助けることができると信じており、その過程で共通の目的で長年の敵を団結させることができると信じている。

バージーブ氏は、水が将来中東で紛争の原因となる可能性が高いことを認めています。「しかし私は、ジョイントベンチャーを通じて水が架け橋になれると信じています」と彼は言う。(略)

バージーブ氏が最も興奮しているのは、水外交の機会です。イスラエルは1995年のオスロⅡ合意の要求に従ってヨルダン川西岸に水を供給しているが、パレスチナ人が受け取っている水は依然として必要量をはるかに下回っている。水問題は、不運な和平プロセスにおいて他の交渉と絡まってきたが、今ではさらに多くのことが目前に迫っており、多くの観測筋は水を非政治化する機会があると見ている。バージーブ氏は、2018年に「Water Knows No Boundaries」会議を開催するという野心的な計画を立てており、エジプト、トルコ、ヨルダン、イスラエル、ヨルダン川西岸、ガザからの水科学者が集まり、意見交換が行われる予定だ。

さらに野心的なのは9億ドルを投じた紅海・死海運河である。これはイスラエルとヨルダンが国境を接する紅海に大規模な淡水化プラントを建設し、イスラエル人、ヨルダン人、パレスチナ人に水を分配する共同事業である。

新しい水源が中東の紛争軽減にどのように貢献しているか

現在、イスラエルでは5つの海水淡水化プラントが稼働しており、さらに2つが開発中です。2026年末までにこれらの施設が完成すると、年間の都市用水および工業用水の消費量の 95% を供給できると見込まれています。

これまで、水はゼロサムで奪い合うものでした。しかし、技術の進歩で産み出すものとなりつつあります。海水の淡水化には、多くのエネルギーが必要です。でも、広大な砂漠で太陽光エネルギーを産み出すことができます。

少しずつ、夢が現実になりつつあります。パレスチナの土地をめぐる争いは、長い間、水源をめぐる争いでしたが、そろそろ、トンネルの向こうにある小さな光が見えてきたのではないでしょうか。

パレスチナの未来

明治以前の北海道は寒過ぎて農業に不向きで、わずかな住民は原始的な漁猟生活で生計していました。(ある意味、砂漠の遊牧生活に似ています)

しかし、今の北海道は日本有数の農業地帯です。技術の進歩が可能にしたのです。

中東の砂漠も、技術の進歩で豊かな地に生まれ変わるときが来る可能性があると思います。

ここから、夢みたいなことを書きます。しかし、全く実現不可能とは思いません。

砂漠を農地に変える

以下に書くのは、「ガザから強制的にパレスチナ人を移住させる」ものでは全くない、という前提での「農業」の話です。

イスラエル南部の砂漠地域が豊かな農地になっていくように、もっと「水技術」が進化すれば、ヨルダン東部やシナイ半島の砂漠にも広大な農園を造ることができそうです。

100年以上前のイスラエルの(特に)地中海側の地は、マラリアが蔓延し、人が快適に住むのに適さない土地だったのです。技術の進歩がそれを変えたのです。

シナイ半島はガザのすぐ南ですし、ヨルダンの砂漠地帯は、ヨルダン川西岸から直線で 100キロであり、東京から箱根ぐらいの距離にあります。

今でも、ヨルダン川西岸やガザ出身のなかで頭脳優秀な青年たちは湾岸諸国をはじめ世界中で活躍していますし、一般労働者もイスラエルなどに職を求めています。

今回のガザ侵攻で流れてしまいましたが、イスラエルとヨルダンは10月に、イスラエル側が海水淡水化を通じて得た2億立方メートルの水をヨルダンに供給する契約を結ぶ予定でした。

夢物語のようですが、戦争のために最先端の技術を使うぐらいなら、戦争をやめて、水技術を進化させ、砂漠の産業化を叶えたほうずっといいと思います。そのときには、小さな土地を巡って争うことはありません。中東には、人の住んでいない広大な土地があります。

繰り返しますが「ガザから強制的にパレスチナ人を移住させる」案ではありません。選択肢、可能性を広げる話です。同じアラブ社会の中でのことであり、豊かさを求めて環境を変えるのは、日本でも普通に行われていることです。

筆者にも、これが、まだまだ夢物語であることぐらい、わかっています。しかし、和平は、この夢物語が実現することではなく(実現してほしいけど)、両者が夢物語に向けて同じ方向を向き、手と手を握ることによって実現すると思います。

ユダヤ人が必要とするもの

そもそも、80年前と違って、大多数が農業に従事する時代ではありません。皆に、農地用の土地が必要なわけではないのです。

イスラエルが、もっとも必要とするものは、「安全保障」です。

1910年、日本は、朝鮮半島を合併しました。経済的にはマイナスでした。しかし、(善悪は別にして)安全保障のために必要と考えられていたのです。しかし、現代の韓国は、民主的な自由主義陣営の国であり、その必要性を論ずるものすら存在しません。

イスラエルも、安全保障さえ確保されるのなら、ヨルダン川西岸もガザも必要ないのです。

土地は、生産の三大要素の一つです。でも、

ユダヤ人は、長い間、キリスト教世界で土地を所有することを禁じられてきました。そのため、(土地がなくとも)頭脳だけで富を産み出すことに長けています。しかし、ホロコースト等で、自分たちの国土を持たないことがどれほど危ういことか身に沁みて、パレスチナの地に、自分たちの国土を求めたのです。イスラエルのユダヤ人が土地に求めるのは「経済」ではなく「安全保障」です。

 ユダヤ人に必要なのは「安全保障」、アラブ人に必要なのは「産業と雇用」。

そして、起業大国であり、次々とイノベーションを起こし続けているイスラエルは、アラブ人に雇用を提供することができます。また、アラブ人は、その気になるだけで、イスラエルに安全保障を提供することができるのです。

ダジャーニ・ダウーディ氏の提案

最後に、ダジャーニ・ダウーディ氏を紹介します。


ダウーディ氏はエルサレム生まれのアラブ人で、2歳のとき、第1次中東戦争が起こり、家族はエジプトに逃げましたが、翌年、ヨルダンが支配する東エルサレムに戻り、イスラエルとの緊張最前線で少年期を過ごします。氏の経歴は下記記事のとおり。

10代のダジャーニは、多くのパレスチナ人学生と同様に、彼はパレスチナ解放の大義に引き寄せられ、ヤセル・アラファトが1965年に設立したPLOのファタハ派に加わった。「当時の私のコンセプトは『私たちか彼ら』でした。私たちは対話や交渉、妥協、あるいはパレスチナ解放を許さない解決策には完全に反対した。」
(略)
エルサレム生まれのパレスチナ人として、彼はヨルダンのパスポートを持っていたが、1970年の内戦中にヨルダンは彼らファタハメンバーのパスポートを剥奪した。彼はまた、ファタハのプロパガンダ活動を理由に、イスラエルから25年間追放された。
(略)

その後、テキサス大学とサウスカロライナ大学で博士号を取得し、ヨルダンで教員となるが、1993年、エルサレムに住む父が、癌と診断される。イスラエルの禁止令はまだ有効だったが、家族再会許可を取得することに成功し、家に戻ることができた。

ダジャーニは、ヨルダン川を渡ってヨルダン川西岸に入ろうとアレンビー橋に近づいたとき、恐怖を感じた。「私にとって、それは完全にトラウマ的な経験でした。なぜなら、1967 年以来初めての入場だったからです。橋に来ると、イスラエル兵がたくさんいるのが見えました。彼らが私を刑務所に入れてしまうのではないかととても怖かったのです。」

エルサレムに到着すると、父は、ダジャーニの視野を広げたいと多くのユダヤ人を紹介した。

それから、父は、エルサレムのアインケレム病院での化学療法の診察の場に彼を連れて行った。「私は、彼らが父をパレスチナ人として、差別をもって異なる扱いをするだろうと予想していましたが、そうではないことが分かりました。彼らは父を患者として扱っていました。同時に病院内を見回したところ、パレスチナ人の患者が多く、イスラエル人の医師が治療を受けていることがわかりました。これにより、敵の人間的な側面を見ることができました。それはユダヤ人とイスラエル人に対する私の見方を変えるのに役立ちました。」
(略)
父は 1995 年に亡くなったが、数年後の経験が彼の見解をさらに変えた。家族でテルアビブへ出かけた帰り、母親が車の中で喘息による心臓発作を起こした。「私たちはベングリオン空港の出口に来ていたのですが、兄は医療援助を求めるために出口に出ることにしました」と彼は思い起こす。「アラブ人の母を、イスラエル人が熱心に助けてくれるとは思いませんでした。」

しかし、ダジャーニが驚いたことに、警備員たちはすぐに助けを求め、救急隊員は1時間以上にわたって電気ショックとマッサージを施した。その後、母親は最寄りの医療施設である軍病院に搬送されたが、医師らは母親を蘇生させることができなかった。

その夜、エルサレムに戻る途中の車の中で、ダジャーニは考え方を変えた。「私は母の空いた席を眺めながら、母の喪失について考えていました。しかし同時に、私は母を助けようとした敵のことを考えていました。それは、平和的な解決策を模索するうえで大きな影響を与えました。」

中庸への変化

信頼の醸成が基礎なのだと思わされるエピソードです。

かつて対イスラエルの闘士だったダウーディ氏が、今は和解のための平和活動をしていることで、強硬派から(身の危険を含む)嫌がらせを受け続けているそうです。氏のパレスチナ問題への分析と提案はかなり読みましたが、日本の中東専門家とは次元が違うと感じました。

パレスチナ国家に対するダウーディ氏の提案を紹介します。

  • パレスチナ国家をヨルダン川西岸とガザ地区に設立する。
  • 独立国家であるパレスチナに居住するユダヤ人は、多数派のアラブ人と同等の完全な公民権を享受する。イスラエルのアラブ系少数派もまた、多数派のユダヤ人と同等の完全な公民権を享受する。パレスチナ国家のユダヤ系パレスチナ人およびイスラエル国家のアラブ系イスラエル人には二重国籍を保持する選択肢が与えられる。
  • パレスチナ国家は非軍事化される。第二次世界大戦後、日本と西ドイツの事例は、軽軍備が両国を経済的に成功させたかを示している。
  • イスラエルとパレスチナの国境は、1967年以前の国境。ただし、今日の世界では、国境の必要性が薄れており、この国境線は、イスラエルとパレスチナの治安機関が活動する場所を指定するだけであり、イスラエル人やパレスチナ人が移動することを妨げる障壁ではない。
  • パレスチナ難民は、パレスチナ国家への帰還の権利を行使することが認められるが、あまり現実的でない。パレスチナ国家に戻る権利を行使しないことを選択した人々には、和平実現のために割り当てられた資産によって補償が提供される。これは、パレスチナ難民を支援するためのUNRWAに代える。
  • エルサレムについて、イスラエルとパレスチナの2つの連邦政府機構、国会/国会、最高裁判所はいずれも旧市街の外、それぞれ西エルサレムと東エルサレムに設置される。市全体の事務は、エルサレム全民を代表する自治体によって日常的に運営されることになる。
  • ヨルダン川西岸とガザ地区のパレスチナ人は自由に旅行し、イスラエルで働く権利を有することになる。イスラエル人はパレスチナ独立国家内で自由に移動し、働くことが認められる。
  • 平和教育カリキュラムの実施を目的とした共同委員会が設立され、あらゆるレベルの学習は、教化、憎悪、扇動が排除されるよう、この共同委員会によって監督される。

日本は、敗戦後、かつての敵国であるアメリカに安全保障を完全に依存することとなりました。これは、トンデモないアイデアでしたが、結果として、そのことが経済発展を容易にしました。経済成長を優先しなければならないパレスチナ国家にとって、安全保障をイスラエルに依存することがトンデモないことでしょうか?

イスラエルの最大の不安である「安全保障」と、パレスチナの最大の課題である「経済発展」を両立させる良い提案だと思います。

ダウーディ氏は別のところで、イスラエルとパレスチナはヨルダンも含めて、EUのような関係になればいいと述べています。最後に、そのEUの事例を紹介します。

中央集権的国民国家の終わり

「主権国家」を頂点とする中央集権体制の国民国家が生まれる前のヨーロッパでは、領主、国王、教会、都市国家など、国際社会における主体は多様でした。また、多様な主体の領土がモザイク状に入り乱れ、王家の相続で領土が変更されることすらあり、領土と主体の関係が曖昧でした。また、多様な主体、重層的な権力関係や領土関係から、国内社会と国際社会の境界が曖昧でした。

フランス北東部アルザスにあるストラスブールは、そのような、国家から独立したライン都市同盟として栄えた都市です。その後、ドイツ(神聖ローマ帝国)領となり、30年戦争の結果として、
1697年にフランス領となります。
1871年には普仏戦争に勝利したドイツ領となり、
1919年に第一次世界大戦の結果、フランス領になります。
1940年にはドイツが奪い返しますが、
1944年に第二次世界大戦に勝利したフランス領となります。

フランス領からドイツ領に変わった4年後の1875年にアルザスで生まれ、アフリカ奥地の医療に生涯を捧げてノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァー博士は、第一次世界大戦時には、アフリカのガボンで医療活動をしていましたが、ドイツ国籍であったため、フランスの捕虜となりヨーロッパに送還されてしまいます。このとき、シュヴァイツァー博士は「私はドイツ人でも、フランス人でもない。アルザス人だ」と叫んだと伝えられています。

そして、現代のヨーロッパ。国際機関、多国籍企業、NGOなどの非国家主体の影響力が強まり、グローバル化が進んでいます。かつて、国家間紛争の最前線であったストラスブールは、現在では、欧州評議会や欧州人権裁判所、EU欧州議会が置かれ、欧州統合の象徴的な都市となっています。

ドイツ人は、フランス(他のEU諸国も)に、パスポートチェック無しで自由に行き来できます。フランスで土地を買って住居にすることもできるし、フランスで買い物したりレジャーを楽しんだりできます。今、「生命を賭けても、ストラスブールをドイツ領に取り戻さなければならない」というドイツ人が、どれほどいるでしょうか?

かつて、フランスとドイツが多くの血を流して、土地を奪い奪い返したのは何だったのか、と思わされます。解決策は、そのような方向にあると思います。

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