よくある「大きな政府論」のダメなところ

この記事は約16分で読めます。

よくある大きな政府論は、こんな感じです。

  • 「大きな政府」では、行政サービスは大きい。
  • 「小さな政府」では、行政サービスは小さい(だから、自助努力が必要だ)。

こんな質問では、ほぼ全ての人が「大きい政府のサービス」を選ぶに決まっています。

高福祉高負担とか、低福祉低負担とか、財源の話がつくかもしれませんが、似たようなものです。

行政機構と行政サービス

「小さな政府」主義のように言われる日本維新の会も、「小さな政府」論を否定しています。

維新の政策思想を丁寧に読み解けば、正しくは「小さな政府」論ではなく「小さな行政機構」論なんです。100兆円という大きな予算を再分配に使うわけですが、ベーシックインカムはその支給過程において行政の裁量性や恣意性が排除されます。制度がシンプルになり、行政コストも下がります。そう考えれば、「小さな行政機構」論の究極の形ですね。

「維新が考えるベーシックインカム論と「新・所得倍増計画」について」藤田 文武

維新のベーシックインカム案は、100兆円規模という「小さな行政機構で、大きな行政サービス」です。

この10年の大阪の緊縮財政のことを言うと意見が真っ二つになるので、やめておきます。ここで大切なのは、維新自身がそのように認識しているということです。

つまり、「大きな政府」「小さな政府」論って、行政機構と行政サービスの話が、こんがらがっていると思うのです。正しくは選択肢は4つ。

  1. 大きな行政機構で、大きな行政サービス
  2. 大きな行政機構で、小さな行政サービス
  3. 小さな行政機構で、大きな行政サービス
  4. 小さな行政機構で、小さな行政サービス

「大きな政府論」を支持している人は、「行政サービス」が小さくなることを問題にします。「小さな政府論」を支持している人は、「裁量行政」の恣意性や「行政機構」のコスパが悪いことを問題にします。論点がなかなか合いません。

 ということで、論点は2つです。

  1. 行政サービスと民間サービスの役割分担
  2. 最適な体制は「大きな行政機構」か?「小さな行政機構」か?

ちなみに「高福祉高負担」「低福祉低負担」って論点は、コスパが一定であることを前提にしている点で、論点がずれており、今回は検討外とします。

また、行政機構の話に、それ以外の公的機関(教育機関、研究機関、医療機関、等々)の話を混ぜるとややこしくなるので、行政の話に限定します。

行政サービスには、裁量行政サービスと非裁量行政サービスがありますが、ここは前者で考えます。

いわゆる新自由主義の理論的支柱と言われているフリードマンが批判しているのは「裁量行政」であって、福祉については切り捨てどころか、バウチャー制度による「行政の非裁量性と生活者の選択」という充実を主張しています。

小さな政府を主張する人のほとんどが批判しているのは、行政サービスの恣意的な裁量性です。

では、まず、行政サービスと民間サービスの役割分担について書いていきます。

行政サービスと民間サービスの役割分担

供給と需要のミスマッチング

新型コロナウイルス感染症対応地方創生臨時交付金では、予算を押し付けられた全国の自治体が、令和2年度第1次補正予算で1兆円、第2次補正予算で2兆円、第3次補正予算で1兆5,000億円と増え続ける予算を使い切ることができずに困っていたため、内閣府は「使い方サイト」まで作ってしまいました。

石川県能登市が、新型コロナウイルス感染症対応地方創生臨時交付金で作ったイカキング(地方創生図鑑によると事業額3000万円)。

イカキング

コロナ収束後を見据え、全国有数の水揚げを誇るイカを新たな観光資源としてアピールするとともに、落ち込んでいるイカ消費の拡大を図るため、九十九湾観光交流施設「イカの駅」敷地内に巨大イカモニュメントを制作する

「地方創生図鑑(石川県能登町)」

国民は、コロナ対策費として、こういうことに使うことを期待しているのでしょうか?こういうのが日本中にあります。「東日本大震災」のときも防災予算バブルがありましたが、今回はその上を行っています。

石川県能登市(人口約16千人)の新型コロナウイルス感染症対応地方創生臨時交付金(内閣府)は、41事業8億2千万円。地方創生事業費なんて、ほんの一部で、各省庁が同じようにコロナ対策費の分捕り合戦をしているので、自治体の負担は相当なものです。

机上で理屈をこねくり回している人たちには、こういう実情を計算できません。

一方で「コロナ対策予算が少なすぎる」という人がおり、一方で「コロナ対策予算を押し付けられてイカキングでも作るしかない」というミスマッチングこそが、役所仕事の最大の問題であり、机上の理論で計算できない部分です。需要と供給をマッチングする民間スピードには、永遠に勝てません。それを、以下で説明します。

住民の「需要」があり、行政や民間の「供給」があります。多くの人が持つ疑問、なぜ、行政サービスは、住民のニーズとズレるのか?

それを紐解くために、行政機構(役所)と民間(企業など)の権限者に、情報が集まり方針が決まる流れを図示して比較してみました。

民間の売買はお金を払うのは「対価」です。対価に相応しいことを納得して自発的に払います。コスパは消費者が判断します。一方、行政サービスはコスパに応じて選べません。

民間の仕事(役所と比較)

ですから、役所のコスパが悪くなるのは当然、他に選択肢がないからです。

民間では「多くの利益を上げた人」が出世しますが、役所では「予算を多く獲得した人」が出世します。予算と仕事が多くなる→部下が多く配置される→ポジションが上がる、のです。民間ではお金をガンガン儲ける人が出世しますが、役所ではお金をガンガン使う人が出世します。

これは、仕組みの話をしているだけで、実際の公務員は、こんな仕組みにかかわらず、倫理観を持って仕事をしています。

役所の仕事(事業)は、企画段階では、トップダウンだけではなくボトムアップも多いです。しかし、一旦、議会で予算が承認されると、あとは担当部署に、「予算」と「仕事」が降りてきます。

そして、「予算を消化すること」が仕事になります。予算消化が至上命題であって、質は問われません。

「上司が獲得してきた予算だ。何でもいいから、とにかく使いきるのがデキるな部下だ」とハッパをかけられます。

役所の仕事(民間と比較)

行革をイメージづけるために「経費節減で、対前年比90%(10%減)だ」とか方針が出されるので、必要のない経費を10%上積みして帳尻を合わせたりします。その結果、本当に適切な予算額がわからなくなってしまっていたりします。

年度末になって予算が余れば、最後はコピー用紙の大量買いでもして、強引に消化します(最近は、インセンティブ制度とかがあって、形式的には改善されています)。

議会では、予算は熱心に討議されますが、決算はほとんど素通りです。年に数日の内部監査、(国費の場合は)数年に数日の会計監査院の検査で完了です(違法はないか?不適切支出はないか?が中心です)。

これを、比較します。

民間と役所の仕事方法の比較

民間(企業など)の場合、生活者(消費者)は、必要がなければ買わない、必要があれば買う、高ければ買わない、安ければ買う、「売買行為」を通して細かくニーズを生産者に情報伝達します。つまり、フィードバック(改善点や評価を戻して軌道修正を促すこと)します。民間の生産者は、どのような製品が、どのような価格で、どのような消費者に売れたのか、売買で得たフィードバックの情報をもとに、需要と供給のミスマッチを限りなく減らしていきます

一方、役所は、財源は別にあるので、ものサービスを生活者(住民)に配布するだけです。住民としては「別にいらないけど、タダで貰えるなら貰っておくか」という気持ちになります。住民のどんなところにニーズがあるか、役所は「フィードバックの仕組み」が貧弱なのです。

繰り返します。役所の問題は、住民のニーズをくみ上げる仕組みが「4年に1回の選挙」「業界団体」という「改善点や評価を戻して軌道修正を促す」サイクルとは呼ばない貧相なものなのです。民間の「売買のたびに」比べて、圧倒的に少ないです。そのため、住民ニーズとズレ続けるのです。

繰り返しますが、実際の公務員は、仕組みに合わせて対応しているだけで、倫理観を持って仕事をしています。

先進国型と後進国型

これを、経済学用語で言うと、供給と需要のマッチングの類型は、こんな感じです。

  1. 再分配  政府など。財を徴収。それとは関連なく分配。「公助」
  2. 互酬  共同体など。贈与など、一方通行。「共助」
  3. 市場売買 民間企業など。「自助」

「国防」や「防災」や「道路」や「住民票発行」などは、個々の生活者のニーズにいちいち合わせる必要性が低いです。「再分配」タイプの役所向きです。

一方、食事、衣料、住居、嗜好品、などは、個々の生活者の好みが大きいので、きめ細かい対応が必要です。「市場売買」タイプの民間向きなのです。

それも、時代に応じて、その国の、そのときどきの状態に応じて変わってきます。

例えば、大災害が起きて避難所にいるときの食事に「和牛の赤ワイン煮込みとトリュフのパイ包み焼きをください」なんて、自分の好みを言うのはおかしいでしょう?そういうときは、メニューは指定せずに炊き出しで我慢してください(炊き出しでも、美味しく感じるはず)。

アベノマスクは、マスクが品切れの春先であれば、有効な政策「再分配」タイプでした。でも、数ヶ月遅れたために、滑稽なものとなってしまいました。日本の政策には、昔なら有効だったけど、今は陳腐だなあ、というものが多いです。

昭和20年代(敗戦後すぐ)の日本のような状態では、生活者は、物サービスの質など注文をつけていられません。物サービスはあれば、何でも欲しいのです。こういうときは「配給」が手っ取り早いです。1の「再分配」タイプです。後進国の生活水準を上げるのは、これが早いです。ですから、昭和の貧しい頃は、「再分配」タイプが重用され、政府の役割は大きかったのです。

でも、社会が豊かになってくると、「再分配」タイプでは、個々の生活者のきめ細かいニーズに応えられません。3の「市場売買」タイプが必要になってきます。

一例をあげます。電話です。

電話が民営化された図

昔は、黒電話の一択でしたが、誰も文句を言いませんでした。でも、今では皆、自分好みの端末を欲しがります。全国一律同品質のサービスでよかった頃は「再分配」タイプが効率がいいし、多様なサービスが求められるようになってくると「市場売買」タイプが求められるようになります。詳細なニーズを汲み取るのは「市場売買」が一番得意とするところだからです。世の中が発展するに従って、生活者がサービスを得る手段が「再分配」タイプから「市場売買」タイプへと変化していくのです。

つまり、「市場売買」タイプの民間サービスの充実と引き換えに、「再分配」タイプの行政サービスが大きなものから小さなものへと縮小していくのは、国が豊かになってきたことの証なのです。

サービスと実施主体の関係

ただ、「再分配」タイプのサービスの実施主体が、民間であることはありますし、「市場売買」タイプのサービスの実施主体が、役所であることもあります。

つまり、以下の4パターンです。

  1. 【通常】実施主体が行政機構で、「再分配」タイプのサービス
  2. 【通常】実施主体が民間で、「市場売買」タイプのサービス
  3. 【例外的】実施主体が行政機構で、「市場売買」タイプのサービス
  4. 【例外的】実施主体が民間で、「再分配」タイプのサービス

3の例は、公営交通機関など。例えば、市営バスと民間バスは、利用者から見れば同じ「お金を払ってバスに乗る」という「市場売買」タイプです。

「民営化」の話題となるのが、このタイプです。「市場売買」タイプなんだから、民間の方がいいことないか?行政がする意味があるのか?ということです。民営化を否定する人が持ち出すのが「公共性」ですが、これは曖昧な概念です。例えば、明治時代には、電話もなく、郵便が唯一の通信手段でした。これは、公共性が高いです。でも、現代は、電話、ネットのほうが主になってしまいました。郵便にどこまで公共性があるのでしょう?というか、民間が公共性の高いことをして、何が悪いのでしょう?「民間(企業など)」も「政府」も、私たちを豊かに幸せにするために、存在するのです。

「どうせ、企業は金儲けでしょ」とか、茶化すのは止めましょう。では、公務員は、給料を払わなくても働いてくれますか?

こういう議論では株主を悪者にすることが多いですが、民間でも「株式の政府100%保有」にすることも、「51%保有」にすることもできます。

4、の例は、NPO団体が補助金をもらって、子ども食堂をしている場合とかです。それ以外にも、まだまだ、事例は多いです。「再分配」タイプであっても、行政機構がするのがいいのか、民間がするのがいいのか、これについては以前の投稿で書きました。

「大きな行政機構」か?「小さな行政機構」か?

「MMT現代貨幣理論入門(L・ランダル・レイ著)」には、「民間部門から資源を奪う、民間部門のインセンティブを歪める、場合には政府支出を制限する必要がある。」と買いています

この部分は、事例を用いて丁寧に説明されていますが、、社会主義政策のためにMMTを都合よく解釈しているMMTerからは、ガン無視されています。「ガンガン国債発行してムダに需要を作ろう」というのは、MMT的に間違っているのが明白だからです。

でも、実際のMMTは、民間に対しての政府の役割について、かなり控えめです。

民間は「製造部門」、政府は「管理部門」

私たちの生活を、朝から見ていきます。

  • 朝、目を覚ましてくれる目覚まし時計は、民間が作ったものです。
  • 洗顔に使う、歯磨き、歯ブラシ、石鹸、タオル、電気シェーバー、民間が作ります。
  • 朝ごはんの、トースト、バター、卵、野菜、スープ、民間が作ります。
  • フライパンも、皿も、スプーンも、コップも、民間が作ります。
  • パジャマも民間が作ったものでしたが、スーツやスラックス、シャツ、ネクタイも民間が作ったものです。

私たちの豊かさは、主に民間の活動から得ています。政府は何もしていない、とか言いたいのではありません。警察がなければ泥棒に入られていたかもしれません。ここでいっているのは、役割の話です。

「民間(企業など)」と「政府」は役割が違います。

「民間(企業など)」は、私たちを豊かにする物サービスを作り、届ける役割。
「政府」は、それを支える役割、
です。

日本社会を、一つの工場に例えたら、民間は「製造部門」、政府は「管理部門」です。

工場を、ベストな状態で動くには、最適な「製造部門」と「管理部門」の役割があるように、民間と政府も、最適なバランスがあります

人的資源その他リソースは限られています。大雑把に、日本の生産年齢人口は、およそ7500万人。その7500万人を、民間と政府で、割り振ります。両方の合計は決まっているので、

  • 「大きな行政機構」は、小さい民間になり
  • 「小さな行政機構」は、大きい民間になります

もちろん、わかりやすく人間の数を例えに出しましたが、人的資源以外のリソースも含めてです。「管理部門」は、もちろん大切です。「製造部門」は「管理部門」がなければ製造できません。だとしても、製造をおこなうのは「製造部門」です。

つまり、行政機構が大きくなりすぎたら、行政サービスが大きくなりすぎたら、民間が私たちを豊かにすることを邪魔してしまうよ。ということなのです。

もっとも、そう単純ではありません。政府が、公共インフラ(道路などのハード、基礎研究などのソフト)を作らなければ、民間は生産ができません。政府が、防災を高め、高速道路網を整備したりして渋滞を減らせば、民間の生産性は高くなります。

つまり、「行政機構」には、民間の供給能力を奪う「非生産的政府支出」部門と、民間の供給能力を高める「生産的政府支出」部門があるのです。したがって、長い目で見ると

民間 ↑x 行政(生産的政府支出部門)↑ − 行政(非生産的政府支出部門)↓= 私たちの豊かさ↑

となります。ただ、ここでは、非生産的政府支出部門は豊かさ↑に逆行すると書きましたが、これは、その時限りで消費するからで、その時々には私たちの豊かさに貢献しています。

これを、民間企業の貸借対照表に例えてみます。民間企業は、流動資産と固定資産を、生産が最大化する最適なバランスにしています。これを、国(供給サイド)に置き換えます。流動資産を民間、固定資産を政府(生産的政府支出部門)に例えたらよいでしょうか。この国にとっての流動資産と固定資産の最適バランスが、サービスを最大化できるのです。ここには、「大きい政府か小さな政府か?」のような単純化した解はありません。

ただ、繰り返しますが、生産的政府支出部門であっても、民間に比べて非効率なことにはかわりなく、実際の作業部隊が行政直営か、民間か、という選択肢はあります。

役所にとって、重労働とは

内部調整と、住民の声

役所には、内部管理部門を除けば、大別して「定例業務」部門と「事業」部門があります。

定例業務部門は、日常的なルーチンワークをこなしていくため、現場が頑張っておれば、上司はあまりすることがありません。

しかし、事業に関しては、口を挟む中間管理職が多ければ多いほど、意見集約が大変になります。船頭が多く漕ぎ手が少ない船。ラインが一本ならまだしも、複数の部署にまたがっていれば、なおさらです。部署間は意地の主導権争いをしているので、譲りあうことが困難です。

よく、霞ヶ関で、夜遅くまで残業している光景が知られていますが、特に深夜までかかるのが、議員質問の待機です。質問の答弁を作るために、複数部署の意見調整が大変なのです。

決裁ラインが複雑な場合、シンプルな場合

現代では、単純労務はIT化の恩恵で、相当に軽減されています。全く減らないのが、人と人、部署と部署の調整です。部署、人が多くなればなるほど、めんどくささは乗算的に増えていきます。

「公務員を増やせ」が、役所の仕事をムダに増やすことにつながり、住民サービスが落ちることまでは、頭が回りませんか?

民間に学べ

ところで、役所で働く公務員といえば、昭和の頃は、「お役所仕事」「たらい回し」「高圧的」「機械的で冷たい」と悪いイメージが主でした。でも、最近は、そういうイメージは、ほとんどありません。なぜか?

それは、役所で「民間に学び、民間に倣え」が、定着してきたからです。

役所は潰れることがありません(厳密には違うけど)。でも、部署とか事業単位で見ると、事業丸ごと民間委託や民営化されることはありえます。部署が減るとどうなるか?役職ポストが減ります。そして、出世が狭き門になります。ですから、公務員は、民営化につながるような「民間のほうがサービスがいいのに」という批判には過敏です。そのため、少しずつ民営化が始まった昭和の終わり頃から、「民間に学び、民間に倣え」が浸透していきました、何も、住民やマスコミ、首長や議員から押し付けられたわけではありません。「民間のほうがいい」と言われないための自己防衛なのです。

大きい行政機構のときは、「高圧的」「機械的で冷たい」だったけど
小さな行政機構になってくるに従って「親身で親切」になってきたのです。

民間企業の「怠けると会社が潰れる」という危機感と、役所の「住民の好感度が下がると民間委託、民営化される」という危機感は、似ています。

もう一つの理由が、先ほど書いた、ラインがシンプルになったことです。

ときどき、「大きな行政機構になれば、住民に優しく、サービスが良くなる」と無条件に思い込んでいる人がいますが、歴史的事実は真逆です。自分に当てはめて考えてください。どんな人間でも、傲慢なときと謙虚なときがあります。どんなときに傲慢になり、どんなときに謙虚になりますか?役所にも緊張感が必要なのです。

規制と行政機構

さて、最後にもう一つ。行政機構には、2つの顔があります。

  1. 生活者(住民)に、行政サービスを提供する役割
  2. 生活者(住民)に、公権力を行使する役割

今回は、1について取り上げましたが、2のほうも似ています。

技術系の公務員は「あの橋は俺が作った」「あの公共施設は俺が作った」と自分のレガシーを作りたがります。そのこと自体は、モチベーションでもあり、悪いこととは限りません。一方、事務系の公務員は「あのサービスは俺が作った」と同様に「あの規制は俺が作った」とレガシーを作りたがるのです。そして、タチの悪いことに、サービスは時代に合わなくなっていけば予算の都合でカットされていくこともありますが、規制はそうではありません。後輩の公務員は「あの規制は有害だな。時代に合わなくなっているな。」と思っていても、先輩に遠慮して手をつけられません。現代日本は、1日に1つのペースで規制が増え続けているそうです。そのなかには、必要な規制もあれば、無駄な規制もあります。しかし、筆者は多すぎて民間活動を萎縮させていると思っています。

まとめ

  • 大きな政府論のダメなところは、大きな政府の最大の欠点が「事業結果のフィードバックがろくに機能していないことによる供給と住民ニーズのミスマッチング」であることを、理解すらしていないこと。
  • 行政サービスは、社会が豊かになるに従って、民間サービスに移行していくのは必然
  • 役所性善説も、役所性悪説も、実際の公務員が、民間人と同じ程度の倫理観を持つ普通の社会人であることを無視しています。公務員は、仕組みに合わせて対応しているだけです。
  • 国のリソースが限られているなか、民間と政府の最適バランスがある。

コメントをどうぞ!