公務員は増やす?減らす?

この記事は約17分で読めます。

まずは、こんな事業を紹介。

2019年の出生数が86万人余と過去最低となる厳しい状況の下、新た に策定された「少子化社会対策大綱」(令和2年5月29日閣議決定)においては、「地方公共団体が行う、出会いの機会・場の提供、結婚に関する相談・支援や支援者の養成、ライフプランニング支援、官民が連携した結婚支援の取組などの総合的な結婚支援の取組を支援する。(略)

地域少子化対策重点推進交付金(内閣府子ども・子育て本部)

少子化対策は、日本が抱えている最も重要な課題であることはいうまでもありません。が、

(1)地域少子化対策重点推進事業
 ① 結婚に対する取組
 ・結婚支援センターの開設・運営 ・マッチングシステムの構築・改修
 ・ボランティアの育成・ネットワーク化 等

少子化の対策として大切なのは、低所得など人生設計の困難、子育て支援インフラの未熟、などへの対策であり、「婚活出会い系サービス」を役所、公務員が運営するのは、どこか違うんではないでしょうか?

多くの都道府県の事業委託先として、民間非営利団体の名が掲載されていますが、ほとんどが外郭団体で、公務員の出向です。利用者負担は、民間婚活業者と比べて桁外れに安く、財政支出は多額です。

この事業の国の支出(自治体負担分除く)が、令和2年度当初予算 9.5億円だったのに、第3次補正予算 11.8億円。えっ!第3次補正って、コロナ対策ではなかったの?

コロナ禍で、出会いの機会が減少したという理由です。今は、これに限らず「コロナ」に関連づければ、なんでも財政支出できます。なぜなら、役所は「コロナ関連」で予算が余っているに、使い道がわからないからです。

民間事業者では実現できない価格設定で(何しろ、公務員が公費で働いていますから)、どうみても民業圧迫です。

「MMT現代貨幣理論入門(L・ランダル・レイ著)」では、「民間部門から資源を奪う、民間部門のインセンティブを歪める、場合には政府支出を制限する必要がある。」と書いてあります。MMT的にみても、どうかと思います。

役所って、社会の期待とズレています。これが「公務員いらない」という風潮にもつながっています。

「公務員を増やせ」と主張される方は、その前に「婚活サービスが役所の仕事か!民業圧迫するな」と、公務員を適正な行政業務への配置することを先に求めるべきです。

そこで、「公のサービスはもっと充実したい」という前提で、公務員の役割について取りあげます。

公のサービスをするうえでの役割分担

公のサービスを実施する方法としては、つぎの4パターンが考えられます。

  1. 役所が直接にサービスを提供する。
  2. 企業や非営利団体が、役所から委託されたり補助金をもらったりしてサービスを提供する。
  3. 役所、企業や非営利団体が、自主財源を調達してサービスを提供する。
  4. 役所、企業や非営利団体が、受益者から対価をもらって、サービスを提供する。

4の「受益者から対価をもらって」は、「え?」と思われるかもしれませんが、「タダなら、必要ないけど貰っておこう」となりがちなので、住民ニーズとズレがちなのです。「対価」は、ニーズを把握する手段でもあります。

それぞれを組み合わせてというパターンもあります。例えば、過疎地のバスは、客からバス代は受け取っていますが、それだけで運行できるはずもなく、財源のほとんどは補助金です。2と4を組み合わせた形ですね。

役所か?民間か?効率性と公平性

まず、役所か?民間か?の基準です。

効率は、どうしても民間の方が役所より高いです。これは、公務員が怠けているというようなことではなく、役所は公平性を重視するため、どうしても効率性を犠牲にするところがあるからです。

端的な例が、役所の議会です。1年のうち何ヶ月も開催しています。もし、民間企業で、1日でなく何ヶ月も株主総会を開いていて、しょっちゅう資料作成と提出を求められて、なんて、非効率すぎて、ありえないでしょう。

役所は効率を第一にするところではないのです(とはいえ、効率性も大切ですが)。公平より効率を優先するような仕事は民間でやってもらいましょう。その一方、役所には、役所の得意なこともたくさんあります。

役所の土木工事の例(今と昔)

土木工事を実施するときの役所と民間の役割分担のイメージを、今と昔で比較してみました。

昔とは、大体50年ぐらい前のイメージで、昔も今も実際には、場合により違うこともあります。地域や工事規模にもよりますし。

ただ、大まかに言って、昔は多くを役所が自前で行っていたことを、今は民間へ外部発注して実施しています。

もともとの原因は、役所の土木技術職が少なくて、仕事が回らなかったからですが(民間も、かなり足りないけど)、

結果として、土木工事に携わる役所の公務員数は減りましたが、土木工事の質も量も低下したわけではありません。

民間委託には、下記のとおり長所も多く、人手不足うんぬんに関わらず、この流れは定着すると思います。。

長所
  • 業者それぞれに得意分野もあり、より専門性が活かせる。
  • 他の自治体で施工した実績を、別の自治体でも生かせる。
  • 競争原理が働き、コストが安くできる。
  • 工事の実施頻度は、年度や地域でバラバラである(災害が起きると特定地域に集中する)。地域に縛られる役所ではなく、民間業者の方が柔軟に対応できる。
  • 役所の技術職も、役所の中で自己完結しているより、民間業者と交流が多い方が意識が向上する。
短所
  • 役所の技術職員(公務員)の実務スキルが向上しない。

 他にもあると思いますが、ここで重要なのは、行政サービスの質や量の充実であり、その実施部隊が公務員なのか民間なのか、ということは、本質的な問題ではないのです。

 公務員が多い = 行政サービスが充実している。
 公務員が少ない = 行政サービスが低下している。

なんてことはありません。同じように、工事の設計としたとして、公務員なら公に奉仕する尊い人たちで、民間設計業者なら金儲けのための卑しい人たち、というわけではありません。「良い道路を作りたい」「安心な橋を作りたい」思いは、公務員であろうが、民間であろうが、何も変わりません。

地域おこしや、福祉も、民間が担う

土木工事の例を取り上げましたが、行政のあらゆる分野で同じようなことが進んでいます。

地域おこし(まちづくり)や福祉でも、役所が自らおこなうのではなく、NPO法人や地元団体に補助金を出して、実施してもらうという傾向です。

筆者の感想では、役所の公務員が、素人ながらに先頭に立ち、自ら汗をかく、ということが減ってきているのは、さみしいという思いもあります。ですが、熱心な役所職員が頑張っていたのに、転勤(異動)で、やる気のない職員に交代してしまって、これまでの努力がパー、みたいな事例も多いので、継続性という観点からも、地元民間人が主体となり、役所は補助的に支えるという形はいいんじゃないかと思います。

コンビニでの住民サービス

また、最近はコンビニで、住民票や各種税証明書が交付されるようになっていますが、これも、「公務員から民間へ」の流れの一つです。

早朝でも夜でも休日でも、近くのコンビニで。窓口業務の公務員数は減りますが、住民は便利になっているのではありませんか?

本来は税務署の仕事〜所得税の年末調整

また、サラリーマンが給与から天引きされる源泉徴収も、本来は役所の仕事であるものを、民間に押し付けています。

もともと、日本での所得税の源泉徴収義務者は国から徴税事務を委託された代行人と位置付けられ、徴税代行手数料をもらっていました。しかし、昭和22年のGHQ軍政下での税制改正で手数料は廃止され、また、税額精算は年末調整制度で済ませることにし、確定申告を省略させることにしました。

もっとも、GHQは、年末調整事務は民主主義の参加意識を損なうものとして、年末調整事務は税務署にできるだけ速やかに移管すべきとしていましたが、未だ実現する空気もありません。

役所には、役所にしかできないことを充実を

役所でしかできないこともたくさんあり、民間の方がもっと住民サービスになることもたくさんあります。役所には、役所にしかできないことをもっと充実させてほしいと思います。公の仕事の役割分担は、社会の変化(例えば、コンビニの社会インフラ化)に合わせて考えたらいい、というだけのことで、公務員数の多少は、結果に過ぎません

スキルのない公務員が大量増殖しても困るよね。公務員も、いろんな専門性を身につけなきゃ。

公務員が多い少ないではなく

公務員が多い少ないなんてことではなく、大切なのは、行政サービスが充実しているか?量は足りているか?質は満足できるか?そのために、実施体制が、もっとも適切な形かどうか?です。下の表だけ見れば、公務員数は激減していますが、身分が民間になっただけであり、サービスがなくなったわけではありません。

加えて、行政機関は、労働組合の反対が強く、IT化が始まったのが民間より遅れていました。公務員にPCが一人一台になったのは、この表の左端の平成10年代前半から後半にかけてです。かつては、エクセルではなく紙に電卓、電子メールではなく電話とファックス、郵便宛名は手書き、そういう時代と今では、事務の作業量が10分の1以下になっています。そういう時代と単純に公務員数だけ比べても意味がありません。

事務職系は多過ぎて、比較すると専門職系は数が少ないと思います。

民間人、公の仕事の担い手の減少

消防団とか、地域で公のために頑張っている公務員以外の人はたくさんいます。。このような人たちに、日本社会は支えられています。

話を進めて、筆者が問題だと感じているのは、公務員数の減少よりも、地域で公の活動をしている民間の担い手の減少のほうです。

かつては、お魚屋さん、電気屋さん、みたいな自営業者が町にたくさんいて、そういう人たちが、こうした公の仕事をボランティア的に担ってくれていました。

しかし、大型スーパーや量販店が増え、商店街が寂れ、公の仕事の担い手予備軍が大幅に減ってしまったのです。

江戸に学ぶ民間パワー

ということで、次は、日本の歴史を紐解き、公部門での民間のパワーが高かった江戸時代から学びたいと思います(何でもかんでも江戸時代を美化しているわけではありません)。

町奉行

江戸の町奉行所(北と南の隔月交代)には、奉行2人と幕臣が290人がいましたが、この人数で、(武家や寺社奉行管轄の町人を除く)百万人ほどの江戸の町の行政、警察、裁判等をおこなっていました。

もちろん、それだけの人数で、全ての行政をおこなえるはずもなく、ほとんどが町の自治にまかせられていたのです。

自身番

江戸の町には、約1000箇所の自身番(町内事務所・町内会所・消防団詰所・交番の機能を兼ねた施設)があり、長屋の管理人である大家さん(約2万人)が「五人組」を組織して務めていました。その内容といえば、

 奉行所からの町触や差紙(呼出状)を受け取り、町内への通知や呼び出しを受けた者への送達、出生届・死亡届・勘当届・迷子・捨子・行倒れの世話やその届といった戸籍事務・人別帳管理・3年目ごとに提出する人口統計・町入用の割付の計算・町内の出来事などを書き記す「自身番日記」の作成がその内容であった。ほかにも、町内に不審な者がいたら自身番に留め置き、巡廻に来た定町廻り同心に引き渡すまで番もした。

wikipedia「自身番」

民間ボランティアとはいえ、ほとんど「役所」です。

この大家さんを束ねていたのが、約二百数十家の名主(世襲)。別名を「玄関」と言って、大きな玄関が屋敷にあり、大家さんでは解決できないような町内の紛争は、ほぼ、この玄関で解決されたそうです。名主は専業で、その給料は、「町入用」という町内会費のようなものから出されていました(形式上は、住人の分担でしたが、実際は裕福なものが負担していました。)

奉行所の役人、現在の警察官にあたる「定町廻同心」は南北それぞれ、たったの6人ずつの12人しかいませんでしたが、町人が運営する自身番を巡回することで町の状況を把握していたのです。

ちなみに、この頃の、江戸より人口が少なかったロンドンの警察スコットランドヤードは、数千人(19世紀の終わりには1万人超え)の警察官を抱えていました。かといって、ロンドンが江戸より治安が格段に良かったかといえば、そんなことはありませんでした。

現在の東京都と特別区の職員数は、合わせて23万人を超えています。

寺子屋

庶民への教育に関しても、幕府は放任でしたが、幕末の頃には、寺子屋と言われるフリースクールが大規模な寺子屋が400-500軒、小規模なものも含めれば1000-1300軒ぐらいあったそうです(実際には、寺子屋というのは上方での呼称)。江戸での就学率は70%から86%もあり世界的にも高い方でした。(同時期のフランスは法律で義務教育化しましたが、就学率は1.4%だったそうです)

しかも寺子屋で教える先生(お師匠様)は、何か他の収益源によって生活を維持しながら、原則無償で子供らを教えていたのです(感謝の気持ちを表して、お志を出す風習はありました)。

ほぼ、民間ボランティアだけの力で、これだけの教育水準を作り上げた祖先たちは、率直にすごいと思います。

江戸時代。町民の、公の意識は高かった

江戸時代の話が本題ではないので、これぐらいにしますが、昔から、日本は公務員が少なくても、十分に民生レベルは高かったのです。

今は社会が複雑になってきているので、江戸時代のようなことは難しいかもしれません。ここで、言いたいのは、昔の日本人には、民間人であれ、公の仕事に取り組む風土があったと言うことです。

例えば、現代でも、ゴミ出しにあたっては何種類もの分別をしたうえでカラスが来ないように黄色い網をかぶるような国民の公共性の高さ(最近は、欧米でも、環境意識の高まりで同じような事例も出てきています)。でも、近隣の某国のように、国民が、家の窓から道路をゴミ箱のようにゴミをポンポン捨てるような公共心の低い国もあります。こういう国は多くの公務員が必要となるのは当然だし、外国と比べて羨ましがる必要もないのです。

海外と公務員数を比較するように、「昭和や平成の初期に比べて公務員は減ったのは問題だ」と、過去と比較する人もいます。でも、紙とペンと電卓の時代と、PCでは、労力が数倍のレベルで違います。公務員が減る以上に事務作業が大きく減っています。比べることに意味がないです。

自助、共助、公助と、役所(MMT的に)

まず、デフレ化においては公務員を増やすべきであるという考え方があります。これは、理論としては正しいです。でも、実際には、公務員は身分保証があるので、新卒で雇用すれば40年も雇用し続ける覚悟が入ります。デフレが今から40年続くことが前提なら別ですが、そんなことを前提とするべきではありません(別の方法はいくらでもあるので、それでデフレ脱却を図るべきです)。

公助の充実を(MMT的に)

 公助とは役所のサービスそのものですが、無駄に予算をばらまいてノルマを科す今の方法は、ダメだと思います。

自助を支える基盤への財政支出を(MMT的に)

北欧諸国は福祉先進国と言われますが、「自立を促す」が基本です。例えば、日本の車椅子は、車椅子に乗る人以外の人が部品交換するようにできていますが、北欧の車椅子は、乗る人自身がメンテナンスするようにできています。

「社会福祉の父」と言われる近江学園の創設者の糸賀一雄氏は、次のように述べています。

私たちのねがいは、重症の障害を持った子供達も立派な生産者であるということを、認めあえる社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自らが輝く存在そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である」

『この子らを世の光に―近江学園二十年の願い』柏樹社

「この子ら世の光を」ではなく、立派な生産者である「この子ら世の光に」です。

社会の役に立っているという満足感は何事にも変え難いし、どんなにハンディを持っている人であっても、その満足感を得て欲しいです。

私たちは皆、歳を重ねれば、背負うハンディは否応なく増えていきます。高齢になったとき、望むのは特別扱いされることでしょうか?いや、ハンディがあっても、極力、ハンディを感じずにすみ、特別視されないハードやソフトのインフラが欲しいのではないでしょうか?自分もいずれハンディを持つのだ、という視点から、どうしたいかを考えてみればいいと思います。

社会参加を妨げるさまざまなバリアの除去(バリアフリー)。出来るだけ多くの人が利用できることを目指した建築・設備・製品・情報などの設計(ユニバーサルデザイン)。

自助を支える基盤づくりは、役所の大切な役割です。どんなに、自助を気取っているリバタリアンでも、役所がつくる道路や、ゴミの回収や、防犯や、もろもろの公的サービスがなければ自助できません。どんな人も、自助は、役所の支えの上に成り立っているのです。みんな同じように自助を実現する仕組みを整備する余地は、まだまだこれからです。

共助を支える基盤への財政支出を(MMT的に)

江戸時代の日本は、自助、共助、公助、のうち「共助」が充実した社会でした(もちろん、現代と比べて貧しくダークな面も当然にありました)。

これからの日本に必要なのは、日本社会にあった伝統的な「共助」の力を、再評価し、充実させていくことではないでしょうか。

「自助」をひたすら追い求める、いわゆる新自由主義。

「公助」をとことん追い求める、社会主義。

そんなもので、皆が幸せな社会を作れるでしょうか?

実際には、フリードマンは「選択の自由」の中で共助の大切さを書いていますし、新自由主義なるものは経済学としては存在しません。リベラル派が批判するような弱肉強食主義を主張する理論など、実際には存在しません。

もし、マザーテレサが、民間人(修道女)ではなく、公務員だったとしたら。彼女の功績はなかったでしょう。そもそも、役所は政教分離ですから、「キリスト教精神に従って」自体が、許されません。価値観の多様性は、役所が苦手とするところです。

「なぜ、弱き人を支え援助するのか?」には、モチベーションが不可欠ですが、役所は、主観性を忌み嫌うのです。

「神と良心だけに従います」は、役所では許されません。自分の良心より、上司の命令が優先されるのは、組織では当たり前のことです。

組織は、社会を動かすために必要で大切なものです。でも、私たちが人として求める幸せは、それだけでは実現できないものなのです。

公共サービスを充実するために、もっと財政支出を充実させることには(効果的であるという条件で)賛成ですが、それを役所の肥大化に結びつけるのは賛成できません。

非営利で公共サービスをおこなう民間団体は、多くあります。企業でも、公共的なサービスに取り組み所も多いです。そういったところの多くは、財政的な困難を抱えています。こういうところに、もっと、社会の支援があれば、と思います。共助を支える基盤への投資は、直接の公助以上に、多様性ある社会を実現し、皆を幸せにすることに役立つのではないでしょうか。

コロナ禍と保健所への誤解

最後に、よく、公務員を増やせ、の例として上がるので、コロナ禍での保健所のことについてコメントしておきます。

保健所で働く方々は、最近、ますます労苦が多い状況だと聞いています。その頑張りには、とても感謝しています。そのうえで、

「こういう事態に備えて、常時、人を増やしておけ」という主張があります。いやいや、乱暴すぎます。

思い出してください。コロナ禍になる前は、「世界的なパンデミックが起きる危険」よりも、例えば「北朝鮮が暴発して日本列島を直撃する核ミサイルのボタンを押す危険」のほうが、皆の心配事だったのです。だからと言って、「核シェルターを全国土に建設せよ」とか「防毒マスクを全国民に配布せよ」とか、主張されていたでしょうか?

今回は、突然に準備ができていない状態でコロナ禍になったので、保健師にしかできないこと、一般事務的なこと、も分別できておらず、外から応援が来ても、何をしてもらうのか指示系統も混乱していたのです。軍隊に例えれば、訓練もしていないところに敵が攻めてきたようなものです。

誰も予想もしていなかった危機がきたのであって、そういう誰も予想していない危機は、他にもいくらでもあります。そう、コロナ禍だから全国的に注目されるようになりましたが、局所的に、特定の部門で、圧倒的な業務が押し寄せるなんてことは、行政、企業、団体、あらゆる部門であり得るのです。危機が起きることを想定して備えて用意しておくことは必要ですが、平時には平時の体制で十分です。

軍隊で例えれば「予備役」という制度があります。平時には平時の体制だけど、非常時になれば迅速に非常事体制に移行できます。必要なのは、こういう準備なのです。

たとえば、税務署は、確定申告の時期には大量に人手不足になります。そして、アルバイトを雇ったり、署内で応援を求めたりして対応します。毎年恒例のことなので、マニュアル化され、アルバイトが来ても、すんなりと入っていけるのです。

コロナ禍の保健所についても、非常時も想定して準備し、備える、平時体制が必要だったのです。

デマを流す人が多いので、一言。筆者は、特に維新支持でも不支持でもないけど、なんでも反対のために事実を捻じ曲げるというのは、(いつかはバレるのだから)逆効果だと思います。大阪の公立の医療従事者は減っていません。増えています。下の方のツイートの通り。(2021.6.4追記)

まとめ

  • 公助を支える基盤づくり。共助を支える基盤づくり。それぞれへの財政支出をもっと!
  • 公助ばかり求めたり、自助ばかり主張したりするのではなく、共助をもっと充実しよう。
  • 公務員を増やすか減らすかは、一つ一つの住民サービスのあり方を最善にした結果に過ぎない。

今回は長くなるので書きませんでしたが、公務員の正規・非正規の問題は、解決すべき問題です。またいずれとりあげます。

コメントをどうぞ!