以下に書くことは、「公助」を否定するのではありません。
例えるなら、民間の「共助」は、町の診療所のようなもの。役所の「公助」は大病院のようなものです。現代日本からは、診療所(共助)がなくなってしまって、何でもかんでも(お金のかかる)大病院(公助)で対応しなければならない、となっていませんか?
食事を提供する「子ども食堂」
さて、日本で最初の「子ども食堂」を取り上げます。お金ではなく、必要な物を直接に提供している事例です。
食事を提供することで、「人と人との繋がり」が生まれた
東京都大田区で元居酒屋店舗を活用した八百屋を営む近藤博子さんは、2009 年に子供の学習支援を行う「ワンコイン寺子屋」を始めます。
そこで、関わりができた地域の小学校の副校長から「お昼の給食以外の朝食と夕食は毎日バナナ一本しか食べられない子どもがいる」という話を聞き、心を揺さぶらせます。そして、悩んだ末、2012 年に、毎週木曜日の「子ども食堂」を始めます。それが、日本で最初の「子ども食堂」の誕生です。週に1回って物足りなくも思いますが、「出来る範囲で出来ること」が「自分たちもできるかな」と後に続く者に繋がっていくと思います。福祉の世界にスーパーヒーローは要らないです。
とは言え、近藤さんは凄い!
その後、「子ども食堂」は、日本全国に数千カ所以上に広がります。
最初は自営の八百屋からの持ち出しで始まった近藤さんたちの子ども食堂は、寄付で食材が集まるようになります。
そして、食堂だけではなく、子供たちがボランティアの大学生に勉強を見てもらったり、高齢者が子どもたちと遊んだり、地域でみんなが集まる場所になっていきました。
「食事を提供」する場が「コミュニケーションを提供」する場となっていったのです。
近藤さんは、なぜ子ども食堂を始めようと思い立ったのか。
「何となく、です。別におばちゃんの力で助けてあげなきゃという重い決断があったわけではない。ここにはたまたま厨房もあるし、ここで一緒に食べられたらいいよねという思いですね。あったかいご飯と具だくさんの味噌汁を作って、それをみんなで食べれば元気も出るから、じゃ明日学校に行くぞという気持ちになるんじゃないかなと」(略)
「となりのおばちゃんがやることだから、私の家に呼んでもよかったんですけど、家に他の子どもを呼ぶのは家族の同意も必要になるので、ちょっとハードルが高くなる。たまたまここには厨房もあったので、自分の気持ち次第でできるしね」(略)
八百屋さんが始めた子ども食堂――お互い様の街づくり~「だんだん」(東京・大田区)
こういう人を何と言えばいいのか。社会運動家ですかと言ったら、即座に「違いますよ」と否定された。「私、社会運動家でも何でもないですよ。となりのおばちゃんでいいと思います」
近藤さんの子ども食堂では、大人500円、子ども100円(お手伝いをすれば無料)の代金を取っています。
無料にしなかったのは「恵んでやる」ではなく、食堂として利用してもらいたいからだそうです。ともすれば、福祉とは「上から下へ恵んでやる」と捉えられがちですが、本来の福祉とは、「困っている人を助ける」「困ったときには助けてもらう」「助け&助けられる」という横の関係です。
実際には、「子ども食堂」の価格設定で採算がとれるはずもありません。スタッフは無給だそうです。でも、「あくまで、食堂」としていることは、とても良いと思います。
人と人との繋がり
近年、大きなニュースになっている放火魔や通り魔の加害者像を見ると、現代日本が抱える貧しさというのは、お金の貧しさだけではなく、人間関係の貧しさ、社会とのつながりの貧しさも深刻です。
福祉とは、「助け&助けられる」ことが基本ですが、「助け&助けられる」ためのインフラである「人と人との繋がり」が、失われてしまっています。近藤さんの子ども食堂では、食事を提供することが、「人と人との繋がり」を提供することに発展しています。
古来から日本人には、「ご飯をいただくときに、お百姓さんに感謝する」といった、物に「人と人との繋がり」を意識するという素晴らしい感性があります。(実際には世界中にあります)
筆者には「食事代金を支給する」よりも「労力をかけて食事を作って提供する」のほうが、ずっと温かみを感じます。
福祉を、お金だけで論ずることには、抵抗があります。
お金には独特の魅力があります。これが自分で稼いだお金なら、筆者は給料は絶対に、お金で貰わなければ嫌です。自分で稼いだお金の使い道は自分で決めたいです。
でも、福祉とは「その人のことを思う気持ちが形になったもの」なのです。
例えるなら、親元から離れて一人暮らしをしている学生への仕送りに例えたらどうでしょう。子どもは「お金で送ってくれたほうが、好きなものを買えるのに」と思うかもしれません。でも、その一方で、段ボールにお米や野菜や毛糸のパンツが詰め込まれていたら、銀行振込みでは得られない温かさを感じませんか。「外食ばかりでは栄養が偏るから」というメッセージや、冷え性を心配する気遣いを感じますよね。
「人と人との繋がり」によって、物は「市場価格以上の価値(豊かさ)」を与えてくれます。
もちろん「物の支給」だけで、セーフティネットが機能するとは思っていません。筆者が期待するのは、こういう風穴が刺激となって、思っても見ないようなところに、次々と風穴が開くことです。そして、そのうちに、それが普通になることです。
これからの時代は、いろいろな形の「子ども食堂」のような取り組みが、次々と始まり、一部に負担が偏ることがないように、資源の一つとしてお金もうまく活用しながら、人と人の繋がりも大切にしていくという方向に、少しずつ変化していったらいいなあと願います。
役所の限界
役所の不得意なこと
「子ども食堂」は、民間ボランティアでおこなっている実例ですが、もし、これを役所でやろうとすると、いろんな困難が待っています。
例えば、食事のニーズは生活保護受給家庭の子どもに多いですが、その子らは、食事の対象となることはできません。「保護費との二重取り」となるからです。また、所得証明をしないと食事をいただくことができないかもしれません。そうなると、地域のいろんな人たちが食事をしながらわいわいする、ということは適わないかもしれません。
「子ども食堂」の立ち上げにあたっては、当初、公の助成金も検討したそうですが、対象者が不特定なこともあり、(改装時に社協から受けたほかは)実現できなかったそうです。また、近藤さん自身も、助成金を受けると制約が生まれるので乗り気でないとのことです。
一方、民間だけではなかなか前に進まないことも多いです。近藤さんの事例では、大田区役所も、子どもの貧食という問題意識を早くから共有していたので、区の助けにより、衛生管理やリスクへの対応、行政への届出等についても、右往左往することが少なかったようです。
子ども食堂自体、はっきりとした定義もなく、全国各地、いろんな形でおこなわれていますが、まるで自治体の事業のようにおこなわれているところもあります。
自治体が、積極的に取り組んでいるのであれば、それはそれで、素晴らしいことです。
筆者が言いたいのは、「役所だからダメ」ということではなくて、役所の場合は、「予算」「既存の制度との整合性」「関係者との調整」「トライ&エラーに時間がかかる」といったハードルが高くて、民間でやったほうが、うまくいくんじゃないかなということです。
ということで、もう少し、役所(公助)の限界について書きます。
実際の福祉の現場では、相手によって対応を変えたほうがいいことがほとんどです。外見的な条件は同じでも、しっかりと寄り添ったほうがいい対象者もいれば、自立を促すために突き放したほうがいい対象者もいます。そこを相手の必要に合わせて柔軟に対応すれば、「えこひいきだ」とか言われてしまいます。
その反面で、形式的な公平を保とうとすると、役所の福祉は、形式的だ、杓子定規だ、お役所仕事だ、と批判されてしまうのです。
大切なことだから、繰り返します。
役所の、良心的で熱心なケースワーカーは、困っている人のことを考えれば考えるほど、その人の実情に応じた必要に対応するために、ケースバイケースで、対応したいのです。
でも、役所である限り、形式的な公平性の壁にぶつかってしまうのです。
役所が「形式的な公平性を重視する」のは、別に役所の人間が悪いのではなくて、それが役所の特徴だからです。「誰が見ても客観的に公平」という長所は、裏返せば「杓子定規」という短所です。状況に応じて、役所の良いところと、民間の良いところを、使い分ければいいだけです。役所に文句を言う前に、役所だけに依存している仕組みを直しましょう。
役所は「予算の範囲内」という上限があります。
でも、民間には、上限がありません。近藤さんが「自分のできる範囲」で始めた子ども食堂は、次々と後に続く者が現れて、いまや、日本中の数千か所でおこなわれています。
見て見ぬ振りをしようと思っていたのに、身近な人が行動しているのを危なっかしくて見ていられない。ついつい、手伝ってしまった。ええい、乗りかかった船だ!……が連鎖して、輪が広がっていきます。
「自分のできる範囲」が伝播していく。
これが、私たちが持っているチカラです。
「役所に任せておけばいい」とは反対のチカラが働くのです。
お金の問題になってしまう
福祉の仕事は、外から見ていればムダに思えることの連続です。民間の仕事で例えるなら、「営業」に似ているかと思います。営業の場合は、結果が数字で出ますので、「花が開いたのは、せっせと種を蒔いたからだ。」と、ムダと思えることも後から肯定できるのです。でも、福祉は、そのような数字の成果が目に見えず、ムダに思えることの連続です。
さらに、福祉の担い手が民間であっても、財源が公金によるものであれば、役所と同じように、「税金ガー」と言われます。幅広い納税者には多種多様の考え方があり、どんな形をとっても、それに不満や反対意見を持つ人は出てくるのです。
さらに、大抵は、公金の使い方に興味がある納税者と、福祉の内容に興味がある納税者は、あまり一致しません。
「税金の使い道」に焦点が当たることで、お金の問題となってしまいます。
というか、役所の福祉は、予算の奪い合いの結果であって、「税金の使い道」に焦点が当たるのは当然なのです。
もちろん、納税者であれば、批判的な意見を表明することは当然の権利です。しかし、「不正受給ガー」みたいな声が聞こえれば、福祉の受給者は、たとえ、やましいところがなくても負い目を感じてしまうのです。
そういうのが嫌で、生活が苦しいのに「いやでも生活保護は受けない」という人もいます。
多数決で物事が決まる公金からではなく、その福祉サービスを支援したい人だけが支援したらいいのではないでしょうか?不満や反対意見を持つ人は、支援しなければいいだけのことですので。
必要とする人に、直接に届けよう
「役所に任せておけばいい」の免罪符を捨てませんか?
私たちは、周りの人たちが空腹な状況で、ご馳走を食べても美味しくありません。
日本人には「自分の周りにいる困っている人たちを、見て見ぬ振りをしていては寝覚めが悪い」というような(良い意味で)集団主義のDNAがあるように思います。
でも、「役所が何とかしてくれるでしょ。だって、税金を払っているんだもん」が免罪符になっているんじゃないでしょうか。免罪符を捨てませんか?
最後の砦として、役所は必要です。ただ、役所に頼りすぎる福祉は見直した方がいいと思います。
自分のお金の使い方は、自分で決める
市場売買において、民間企業が、消費者のニーズを発掘して、多種多様な物サービスを産み出すように、
役所よりも民間のほうが、福祉を必要としている人のニーズを敏感に察知して、きめ細やかな福祉サービスを産み出し、提供できます。
しかし、市場売買の場合は、それぞれの消費者が財布を握っていますが、
福祉の場合は、役所が財布を握っています。
そして、Colabo疑惑をきっかけに、政治コネで役所から金を引っ張る問題有り団体がある一方、政治コネがなければ、頑張っている民間団体でも、役所から相手にもされないという実態が次々と明るみになってきています。
役所が握っている財布は、本当は、私たち一人一人の財布ですので、私たちが使い道を決めませんか?
「私たちの提供する福祉に、賛同してくださる方は、金銭的に支援してください」とする民間団体に、私たち一人一人が、直接に支援すればいいんじゃないでしょうか?
でも、ほとんどの人は、そこまでの経済的余裕がありません。
そのためにも、減税が必要です。
「お金の振込先を役所から民間にすればいい」というだけ意味ではありません。「どこを支援したらいいんだろう」自分のお金の使い道に責任を感じることにつながると思います。「人と人との繋がりをお金に代えてきた」と書いてきましたが、お金を「人と人との繋がり」の中で活かすこともできると思います。もちろん、資金支援以外の「自分ができること」もあると思います。
「将来の子供たちのために残したい日本は、どんな日本だろう。」そう考えてみると、筆者の答えは、税金を払って役所にお任せ、の日本ではありませんでした。
税金をたくさん搾り取る知恵を絞るよりも、助け合いの輪を広げるために知恵を絞ってはどうでしょうか。
「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代に見られた人情を見習ったうえで、令和風にアップデートしましょう。
助け合いの輪が広がっていった日本。それが、筆者にとって、将来の子供たちのために残したい日本です。
コメントをどうぞ!
公助の仕組みは大きな政府にしますが、結果的に困っている人に中抜きや事務費や利権で僅かしか届かないという構造問題があるなら、共助の仕組みを大きくする方がより困ってる人にも福祉に携わる人にも国の富が循環しそうですね。欧米が寄付文化なのはキリスト教ゆえかもしれませんが、日本も古来から神社やお寺を中心としたコミュニティで共助してきた文化を取り戻すべきかもですね。
民間団体にも中抜き問題はありえますので、情報公開と競争原理は大切と思います。
また「日本人に寄付は馴染むか?」については、わかりませんが、まず、話題になったり、関心を惹いたりしないと始まらないと思います。